「西洋で心理療法の訓練を受け、思想的には強く西洋の文化の影響を受けつつ、やはり日本人として抜き難い日本人性をもち続けている私は、自らを「片子」と同一視して物語を読んでいたので、片子の自殺という結末はきわめてショッキングなことであった」・・・河合先生は、このように書いています。ここで片子というのは、日本の昔話に、「半分人間、半分鬼の子」で、人間世界に住みつくことができず、果ては自殺してしまうという筋のものがあるといいます。そして、先生のこの講演について、日系の二世や三世の人たち、中国人の二世といった異文化で暮らしてきた人々のみならず、アメリカの多くの人々から「西洋人も精神と物質との間の片子の問題を抱えているのだ」といった意味の強い共感が寄せられたことが述べられています。

【写真】今年の野川ではメダカなどがほとんどみつからない(2006.6.4 三鷹市大沢付近)
今年80歳になる私の母は、とくに知的というほどではないにしろ、羽仁説子の友の会運動に加わるくらいには社会の動きにも関心をもつといった主婦でした。私の一番初期の読書ではっきりと記憶に残るのはマテオ・ファルコーネでしょうか。あるいは十五少年漂流記、海底二万マイルといった物語も強い印象があります。中学生になってから、夏目漱石や森鴎外なども少しずつ読むようになりましたが、たぶん、その何倍も翻訳小説を読んだように思います。ワタナベが緑が寝静まった後の小林書店で読んだヘッセの「車輪の下」、これを読んだときの情感には独特のものがありました。ルソーの「告白録」、魯迅の「雑文集」などから次第に社会と人間の関係を見つめるようになりました。トロツキーの「わが生涯」を読んだのは高校かその卒業後くらいの時期だったと思います。・・・いずれにしろ、私の感覚の中では、もう特に日本文学と世界文学が截然と分かれ対立しているものではなくて、日本文学も世界文学のひとつといったとらえ方をしてきたように思います。
そうした意味では、私もまた片子たることをもう少し深く自覚すべきなのかもしれません。私の中に、河合先生がいう「抜き難い日本人性」といったものが果たしてあるのか、もしあるとすればそれはどんなものなのか。村上春樹にはあまり違和感を持たないものの、日本人のコミュニティや文化にしばしば違和感を感じてしまう私としては、そのあたりをもう少し見つめていきたい・・・こんなことを考えました。
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