土曜日, 8月 20, 2011

なにかを言わねば・・・

3月11日の地震から5か月が過ぎた。今年の夏はことに暑い。
あの震災は節目だった。そのことに気がつかない者はいないが、その意味するところをそれに相応しい広さと深さで把握している者は少数にとどまるような。

いま何を言うべきだろう、何を書くべきだろう・・・

まず日本政治の貧困は特筆しなければならない。
中央の政治は人々の現実から遙かに遠い。ますます遠ざかりつつあるといってよい。
「社会から生まれながら、しかも社会の上にたち、社会から自らをますます疎外していく権力」という、国家についてのF・エンゲルスの定義が思い起こされる。
さらに、社会革命の時代の到来について、「下層が以前のように生活することを欲しないだけではなく、上層がこれまでのようにやっていけなくなるということが必要」というレーニンの指摘も、100年を経て、いま想起されるべきと思われる。

政治、そして行政に関わる方たちにはしっかり肝に銘じておいてほしいところである。
みなさんの足下にあって、普段物言わぬ人々に対する想像力を欠き、政治を私闘、私利の風下におくことは罪であり、必ずしかるべき報いを受ける日がくるということを。
原発の破壊と暴走は、日本社会の破綻の始まりであり、つぎに来るのは日本国債の暴落ではないだろうか。

そして、原発を暴走させて北半球の大気と太平洋を放射線で汚染した行為は罪ではないか。
この罪を追求することが必要ではないか。
政治家、官僚、マスコミ、・・・断罪すべき人々は数限りないが、数限りなければ罪に問わないということにはならない。

日曜日, 2月 13, 2011

子育てはうまくいかず・・・

この一月、太郎は12歳となった。

昨年夏に母が熱中症でダウン、話すことの辻褄がやや合わなくなって認知症かと心配したが、幸い兄と姉が交替で仙台に詰めてくれて一応の健康を回復した。
正月には父がわずかな酒で座ったまま昏睡し、早とちりした母が医者を呼ぶ騒ぎになった。
その母もまた、2月に入って虚血で倒れて意識を失い救急搬送されたり・・・。
仕事柄、介護保険の制度面には詳しくても、実際に身内の問題となるととまどうことが多い。

両親のようすをみにいく他に福島市での仕事もあり、最近、東北新幹線に乗る機会が多かった。
座席に置いてある広報誌に伊集院静さんがエッセーを連載されている。
家族の想い、とりわけ親の子への想いをつづった文章がいつも心をうつ。
子は親の想いの深さになかなか気づかず・・・、とあった。
子育てはうまくいかず・・・、とも。



Tarou 2011

金曜日, 11月 06, 2009

十円玉


今朝、銀行のCDに小銭を入れたところ、故障で処理が止まってしまった。
原因がこの十円玉。
充分過ぎるほどスリ減り、厚みさえ少ない感じだ。
よく見ると「昭和二十八年」とある。うん、何とこの硬貨は僕より1年「先輩」だった!
世の荒波を幾星霜、・・・乗り越えてきたという訳だ。

思うに、いよいよ僕らの世代(ポスト団塊)も、世間との格闘で身も心もボロボロという方が目立つようになった。
少し先輩になるが、昔、籍を置いた会社でお世話になった奥村真さんが、先日亡くなったという。
もちろん僕らは、まだ守りに入る年齢ではなく、またそれが許される状況でもない。
CDが十円玉と認めてくれなかった硬貨を見ながら、わが行く末を思う朝だった。

日曜日, 11月 01, 2009

毘沙門の落日

三浦の毘沙門港あたりまで遠出した。
釣具屋によると、どの磯も釣果が芳しくないという。
この日の満潮は午後3時。海は少し荒れて、砕ける波が釣り人の足許を洗うようになった。
大物を狙う欲と波が砕ける恐ろしげな轟きを両天秤にかけて、慎重に足場を選んだ。
これで釣ったのが下のウミタナゴ、・・・22センチあった。
(先輩の釣師の皆さん、笑わないでください、・・・これでも僕には「大物」です)
振り向くと城ヶ島の向こうに夕陽が落ちるところだった。

火曜日, 10月 27, 2009

秋天晴日 a nice day in autumn blue sky


Ogikubo, Tokyo metoropolitan city(2009.10.27)

この一年ほど、いろいろなことがあった。
4月に太郎は小学五年となり、ますます私の言うことを聞かなくなった。
いつもベンチを温めているようすだが、少年野球チームの練習に欠かさず参加している。
仕事では、1年半ほどの「社内起業」の試みがゆきづまり、私自身も20年近く籍を置いた会社を辞めることとなった。
この時には、たくさんの方々から励ましを頂いた。
とくに旧くからの先輩である岡部喜重郎氏が「千葉さん頑張れ、失敗してもあまりめげずに、成功を目指して頑張って」と書いて頂いたことが心に沁みた。
三浦の海には変わらず通い続けている。
もっとも、三戸浜のビーチバムを含め、相模湾一帯の海岸線は、先日の台風18号(メーロー)でボロボロになった。5月にみんなで遊びに行った黒崎の鼻の手前の浜では、砂が削りとられて先に渡れなくなった。
仙台では、父が92歳、母が86歳となり、変わらず二人だけの暮らしを送っている。

・・・私は落ち込んでいる訳ではない。そういう余裕もない。
前よりもっと集中して働いている。さらに計画的になっている。
しかし、この20年間のような、ただガムシャラに走るような働き方は止めよう、と思う。
人生の第三ステージの目標は15年後(70歳)くらいに置きたい。
皆さん、よろしく。そして、ありがとう!
頭をあげ、笑顔をつくり、・・・さて、出発としよう!


館山にて 2009.8.5






木曜日, 1月 22, 2009

いや、失敗、失敗・・・

今日(1月22日)、中野区の警大跡地開発計画の事業者説明会が開かれ、私もご縁があって会場の一席に座らせて頂いた。会の経緯については、またどなたかが報告されることと思うので省かせて頂くが、どうもこの計画はイケナイ、・・・実質的な事業主体である東京建物の説明も何かウツロな響きがした。彼ら自身がこの計画の実現性に確信をもっていないのではないか、・・・そんな疑問が胸をよぎった。
会場で配られた資料には「平成21年度着工(予定)」とあった。でも、なぜ「予定」なの?
土地代だけで1,400億円という、いかにも「時代に相応しくない」巨大プロジェクトがこのまま計画どおり進行する保証はどこにもない。21年度着工、24年度竣工という「予定」を守れなかった場合、そのリスクは誰がとるのだろうか? この「予定」はいかにもあり得ないものに思える。
区民の立場として、計画が頓挫した場合(その可能性は決して小さくない)、いかなる意味でも区に負担や尻拭いを求めないという一札を東京建物に求めるべきであると思う。

私自身はこの会場で、かなり緊張してしまった。
・・・いや、まだまだ修行が足りない。
番小屋のお母さんにこのお話をしたら、「名優は無茶苦茶緊張するもの」と聞いたようなことをいう。
知った間柄のグループで話すのとは違う、好意も悪意も入り混じった場で生き生きと自己主張する訓練をしよう。某大国の新大統領には敵わぬとしても、ね・・・

水曜日, 12月 31, 2008

たろパパ、大晦日にボラを3匹釣ること

なにやら『今昔物語』風のタイトルだけれども、昨日(30日)から三浦半島・湘南に釣りに出かけた。昨日は暖かく、午後に強くなりかけた風も夕方には収まり、今日は今日で穏やかな釣り日和となった。


この夕陽が今年最後・・・(31日、久留和漁港)



昨日はこの一年よく通った「黒崎の鼻」へ。昼すぎ、だんだん風が出てきて波も荒くなってきた。わずかに手のひらサイズのウミタナゴのみで撤退。ビーチバムさんで今年最後のランチを頂いた。そして、昨晩は、急遽、平塚の姉の家に泊めてもらった。・・・釣り宿代わりにしてしまい、本当に申し訳ない! でも、久しぶりの四方山話が楽しかった。

今日は大磯漁港から江ノ島の磯、そして葉山の少し先にある久留和漁港へ。結局、この日釣れたのはボラ(イナ?)、ボラの幼魚(イナッコ?、スバシリ?)の3匹のみだった。この季節、ボラは脂がのり、刺身は濃厚な味わいがする。

今日は富士がよくみえた(31日夕刻、久留和漁港から)



ボラのウロコは落ちやすいが、イナセの語源というとおり、姿は美しい


ボラは出世魚とか・・・。大晦日に大中小のボラを釣るのは縁起がよい、と勝手に思う。この秋以来の経済の崩壊、ガザの空爆による大量殺戮、・・・暗いニュースばかりが飛び交う時代。何とかこの時代そのものが変わるように・・・、本当の「チェンジ」が到来するように。



チェンジ アンド スマイル、・・・ちょっと唐突な書き方だが、これが「新年のスタンス」ではないだろうか

日曜日, 12月 07, 2008

葡萄、ブドウ、ぶどう

今年のこの「日記」は今日で5回目、・・・これでは日記ではなく、月記でもなく、季刊になってしまう。回数からみれば、今年は最少の年、ブログの運命は「風前のともし火」といってもよい。

孔子様は四十を不惑としたけれども、僕は五十をいくつか過ぎてもまだ迷ってばかりだ。

太郎は小学4年。邪気がなさすぎと感じられることも多く、年齢の割りに幼いとも思う。
【父子の会話】
父 (太郎が感心にも机で勉強しているのをみて)うん、頑張ってるねえ。でもパパが子どもの頃は家で勉強したことなかったなあ。学校で授業を一生懸命聞いてるだけでオール5だったね!(と自慢したが・・・)
太郎 それで普通のサラリーマンか・・・


どうもこの絵柄には「お手本」があるらしい・・・


先日、母方の叔父が逝った。強い個性の人で、私などにも折に触れて声を掛けてくれた。卆寿を越えた大往生だが、とりたてての葬儀はせず、遺志どおりの家族葬だという。時代は、家族のあり方、終末の迎え方、墓の持ち方、・・・それぞれに大きな変化のただ中にある。

私の両親もまた仙台で、今にも折れそうになる細枝が二本、支えあうように暮らしている。もういつ何があってもおかしくない、・・・そういう覚悟はあっても、いざそうなれば、あれを聞いておくんだった、これを聞いておくんだったと、後悔が重なることもまた間違いない。


「黒崎の鼻」の磯(2008年11月)


今年、勤務先の三年ごしの経営難はようやく終わりがみえてきた。あまりに深かった「谷」の負債を背負いながらも、徐々に状況は好転しつつある。自分についても、よくも倒れずここまで踏ん張り抜いたと静かな自信を感じながら振り返っている。

2008年の師走。後で振り返れば、結構大きな人生の節目の年ということになるかもしれない・・・