火曜日, 8月 22, 2006

よくぞ、ここまで生き抜いた

わが父、千葉正男は、1918年宮城県築館町(現栗原市)に生まれ、満20歳の夏、仙台に本部を置く第二師団配下の現役兵としてノモンハン事件に動員された。戦闘には遭遇しなかったが、塹壕に籠もって火炎瓶でソ連戦車をねらう訓練を繰り返したという。父はこれを振り返って、「ああいう戦術しかないのではとても戦争に勝てないと思った」らしい。

その後、戦時で1年延期された兵役を終え国鉄に就職、それからの数年間が父にとってはもっとも自由に満ちた青春の日々だったようだ。母と結婚し、兄が生まれた直後の1945年6月、旧満州ハルピンにて現地召集。そのまま戦闘らしき戦闘もないまま敗戦となった。ソ連の捕虜としてバイカル湖周辺で強制労働に駆りたてられたが、1947年頃に帰還。

いま父は衰え、散歩で家の周りを10分ほど歩いてくる他は、自室で横になっている時間が多いが、それでも心は元気だ。昔のことを聞く私に、「よくぞ、ここまで生き抜いた」と笑顔で振り返ってみせた。小学校(仙台、通町小学校)時代の20数名の男子同級生のほとんどが世を去り、戦争では長兄(幸男)を失っている。父たちが負った戦争の犠牲が、同じ時代の他の人々に較べて重かったのか軽かったのかを一概にいうことはできない。父の人生だけが波瀾万丈だったのではない、時代そのものが波乱万丈だったのだ。

太郎くんへ
いつか君がこのブログを読む日がくるかもしれないが、君のおじいちゃんはこんな人だったんだということを、ぜひ覚えていてほしい・・・とパパは思います。

1 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

 Rパパです。
 私は現在40歳目前ですが、幼いころ祖父母からしばしば戦争の話を聞かされました。私の母方の祖父母は、戦時中は満州暮らしで、いわゆる引き揚げよりは少し早く帰国したそうですが、それでも苦労が多かったそうです。一方、父は終戦時15歳でしたが、東京生まれの東京育ちですので、東京大空襲を経験しています。
 このような話を身近な親族から聞くというのは、とても貴重なことですが、今の子どもたちにはなかなか機会がないですね。また、小学校低学年ではなかなかイメージしにくいところもあり、やはり小学校高学年程度にならないと、十分な理解に至らないように思われます。
 ということで、ひとつには、お父様の体験を録音ないし録画するということも考えられるのではないでしょうか。たろパパがインタビューをしながら、録音しておくと、貴重な記録になるように思います。いつか太郎くんが聴いてくれる日がくるとよいですね(といいつつ、私は何もしていませんが)。