「1つの問題を条件付けて、このことで言うことを聞けば会う、この条件を満たさなければ会わない。そんな国はほかにない。こういう時期に、1つの問題で意見が違うから首脳会談しないという方がおかしい」・・・これって、去年、郵政民営化をゴリ押しする首相に反対して自民党から叩き出された皆さんが叫んでいたワン・フレーズ・ポリティクス批判の大合唱と同じ言い方ですね。ここで、「1つの問題」=郵政民営化、「会う/会わない」=自民党員として認める/認めない、等々と入れ替えてみるまでもないでしょう。これは誰でも判ることで、恐らく首相ご本人も「この言い方は突っ込まれるかなあ」と内心感じていたのではないでしょうか。ついでに「言葉の力を信じる」朝日新聞の朝刊には、この首相発言の「妙」を取りあげた評論はなかったようです。こういう言葉の隙をすかさずパロってみせる方がいれば、きっと大ウケするところです。
【写真】今年の桜もそろそろ見納め(2006.4.4 玉川上水で)
さて、昨日に続いて河合先生のご本から「青年期の生き方について」を読んで気がついたことを書きます。この文章では「子どもが大人になる、ということはなかなか大変なことである」として、青年期の問題を特に中学生の時期に絞って書いておられます。「人によって多少の差はあるが、中学生時代に人間の心の奥底において生じている動きは、ほとんど言語的に伝えることができないものと言うべきであろう」とし、子どもたちが出会う「性」、生と死の試練、自立と依存、グループの意味、そして大人が「壁」となる必要性といったことが述べられています。
「心の底から生じてくる強い力によって、中学生が行動しようとするとき、それに対して正面から受けとめ抑止する力がはたらいてこそ、そこに建設的なことが生じてくるのである」として「壁」の意義を語り、しかし、この大人の「壁」は子どもたちをはね返すものであっても、子どもたちを締めつけるものであってはならない、と実に的確に、大人あるいは教師の果たすべき役割りと境界を示しています。
【写真】 散る桜ながら陽をあびて精一杯咲いています(2006.4.4 玉川上水で)
たろパパの中学の時の先生たちはどうだったかなあ、と遙かに振り返ってみると、やはりそれぞれご自分というものを前面に出して受けとめてくれた方が多かった(そういう先生が40年近く経っても強く印象に残っている)。・・・もちろん当時は、コノヤロ!とか思ったこともあった訳ですが。でも、パパになるということはなかなか難しい、たろパパじゃなくてまだまだ「あすなろパパ」かなあとか思ったことです。
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