水曜日, 1月 10, 2007

日本人の「コミュニケーション」をめぐって

コミュニケーションを日本語では何と言うのでしょう? 会話、触れあい、交流、意思疎通、・・・どれもうまくあてはまらないようです。そして、日本ではバランスのとれたよいコミュニケーションというものをもつことが、何かすごく難しいことのような気がします。それは何故なんだろう・・・私はそういう疑問を長い間、抱いてきました。
【写真】たろパパ(太郎が3歳頃?に描いたもの)

この日本人の「コミュニケーション不全」問題(!)に、最初に気づいた時、私は、「日本人の人間関係はあまりにも濃密過ぎて、言葉によらないところが大きいのだ」といった風に考えていました。でも、だんだんわかってきたことは、そうではなくて、どうも私たちの社会では「言葉を交わすことがコミュニケーションのベースになっていない」「ほとんどの日本人は、そもそも聞く、話す、読む、書くというコミュニケーションの基本的な訓練ができていない」という、何とも呆れるようなことだったのです。

去年、高齢ママさんがブログで「先生と、コミニュケーションがとれません!」と書いていたのを思い出します。・・・高齢ママさんが聞いた時に返ってきたコグマくんの先生の答えがチグハグというか、ほとんどズレています。そうなのです! 日本の小学校では、まず先生たちの、この「聞く、話す・・・」という訓練ができていません。

そんな風に思って、それとなく太郎の勉強のようすをみていたところ、冬休みの宿題になっている「硬筆・書き初め」というのが目につきました。このリンクにした先は新潟県の書道教育研究会のホームページですが、ご覧のとおり、ここで「書き初め」をする文章というのは、子どもたちが考えるのではなく、決まった文章になっています。

これは文字を正しく美しく書く練習で、文章を書く練習ではない・・・それはそのとおりだと思うのです。しかし、私の勘ぐりかもしれませんが、どうも日本の小学校では、この「書写」の練習の先に「作文」が来るのではないか、・・・少なくとも子どもたちの意識の中ではそうなのではないか、と疑われます。そうなると、作文というのはまず「お手本」があって、お手本に一番似たようなことを書くことがよいとされているのではないでしょうか。心にないことを書いてよい点を取るのが作文だとすれば、これは苦痛ですね。

無着成恭先生の生活綴り方教育はどうなったのでしょう。あるいは、昨年亡くなった灰谷健次郎さんの優れた指導で、いきいきとした子どもたちの詩がたくさん生みだされたことが思い出されます。子どもたちの心には、燃えあがるように育つものがあります(あるはずです)。恵まれた環境であれ、逆境であれ、子どもたちは心に浮かぶそれぞれの思いを言葉にしていくことで、現実をとらえ、成長していきます。この自らに発する「思い」こそ、コミュニケーションの基礎であって、お手本を真似する苦行を強いて作文嫌いをつくりだすなどということは、子どもたちを損なうものだというべきでしょう。・・・思い返すと、私も小学校の作文というのは間違いなく嫌いでした。だいたい「何を書いてよいか、わからなかった」からです。本当は何を書いてもよいのに、・・・書きたいことを書けばよかったのですね。

「聞く、話す」ということについても、日本の小中学校では重視されていないようです。これは、本来、読む/書くよりも深いところに位置するはずですが。友だち同士で、まずお互いの話を聞く、そして、話す、・・・これが出発点です。聞くというと、まず先生の話を畏まって聞くことになってしまう・・・これは何か順序がおかしい。また、話すというと、国語の教科書をみんなで声を揃えて音読する、これも何か違う。自分が体験した何か面白いことを友だちにぜひ伝えたい・・・例えば、そういった「人に伝えたい」という思い、それを見つけるのがベースのはずです。声を揃えて音読するというのは、読む練習にはなっても話す練習にはなりません。話す練習は、心に浮かぶあれこれをまず「書き出してみる」ことから始まるのでしょう。

コミュニケーション不全の日本人に対比して、キリスト教の影響の強い西欧社会はさすがに「ロゴスの文化」です。歴史に残る政治指導者の演説なども枚挙にいとまがありません。大抵の日本人は、リンカーン、チャーチル、キング牧師のそれぞれ一世を風靡した名句を覚えているでしょう。彼らはそのスピーチを通じて、危機の時代に人々が進むべき理想を示し、あるいは社会の団結を生みだしたのです。それらの言葉の意味するところは明確でした。だから歴史に刻まれたのです。

日本人、そして日本の政治家の言葉に対する姿勢はどうでしょうか。「劇場型政治」として有名になった小泉首相は、自らの所属政党である「自民党をブッ壊す!」と叫び、それに多くの日本人が拍手喝采を送りました。どうも論理的ではないですね。他方、安倍首相は「美しい国」というイメージに過ぎない言葉を繰り返していますが、国民はこの言葉が意味するところをどうも掴みかねているのではないでしょうか。ひょっとすると、言っているご本人もあまり判っていないのでは、と疑われます。・・・少なくとも、この二人の言葉が、他国の人々の記憶に長く留まることがないことだけは確かと思われます。

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