金曜日, 3月 31, 2006

モクレンのシュールレアリズム

先日、太郎くんと一緒に勉強したように、宇宙の大きさは13億から15億光年だという。光のスピードは1秒間に地球を7回半回るから30万キロメートル。300,000キロメートル×60秒×60分×24時間×365日×1,500,000,000年=14,191,200,000,000,000,000,000キロメートルだ。だ、と書いても、この142垓キロメートル(垓:がいは京:けいの1万倍)という距離はどのように「実感」できるのだろうか。健診で肥満度の警告を頂き、駅から5分ならいいけど10分歩くのはちょっとね、とか言っているたろパパには、とても「実感」などできはしないと言ったほうが正直そうだ。しかも、この「宇宙の果て」が本当に宇宙の限界であるかどうかはわからない、証明しようがない、とのこと。もともとこの15億光年という大きさ自体、目で見た人がいる訳ではないし、あくまで推論によるもので、僕たちは言葉を使い想像力によってその「距離」をイメージしているに過ぎない。

【写真】善福寺川の桜・・・東京の桜の花見は
今週末がピークのようですね(2006.3.28)

グーグル株式の時価総額は15兆円にもなるらしい。この「時価総額」ということにこだわって小菅方面に行ってしまった方もいるけれども、1クリック5セントほどの売り上げをウン億ドル積み上げるために払われた努力と才能は、とても並みの秀才たちとは較べようもないという気がする。このグーグルに集中的に情報が蓄積されることを怖いという人もいるが、日本の大手プロバイダはもとより、下手に「反権力」を標榜する政党などよりよほど米政府あたりの干渉と闘ってくれそうだ。とは言え「もし世界政府というものがあれば行うであろう、世界中のすべての情報を整理する」のがグーグルの目的などと真面目に語る5000人のエンジニヤたちにこの世界の命運が握られている状態ではある。これからその蓄積はますます強まっていくだろう。

【写真】逆立ち運動しているのカモしれない(2006.3.28 善福寺川)

宇宙の大きさとグーグルのチャレンジの壮大さを想像しながら、「領土」をめぐる国家間の争いに子供たちまで巻き込もうという教科書検定の問題を横目で眺めると、いかにもそのつまらなさが実感される。海の底にあるものを「俺のものだ!」と取り合ってどうする? 100年後には人間の住めない地球になってしまうかもしれないという時に、目先の資源を巡る19世紀的対立はいかにもくだらない。なぜ地球環境に配慮した資源開発を日中共同で進めようという発想ができないのか。領土問題はいずれ次の世代が判断すること、両国の友好が先というのが日中修交の前提の考え方ではなかったのか。

その中国からの頭脳流出が止まらないらしい。中国の海外留学熱は高く世界中に10万人規模の留学生がいるようだが、そのかなりの部分が卒業しても帰国しないという。これと直接の関係はないかもしれないが、グーグルすらも「屈服」させた中国政府の言論規制もまたいかにも大時代的だ。中国がアメリカと比較しうる大国に発展するために、こうした言論規制は「障害」でしかないだろう。それから日本のパパやママは子どもたちの英語教育に熱心だけれども、米中の両大国の間に位置する日本では、英語と同じくらい中国語の教育に力を入れてよい。

ところで、トリン・フォー・トリンの日本語訳は出版されているのだろうか? あるいはこれはひとつの教育方法の概念で、まとまった本というものはないのか。もしまだ出版されておらず翻訳権を誰かが持っているとか、何か情報があればどうぞご教示ください。

【写真】モクレン・・・一昨日の写真もそうですが、豪華
という以上にシュールな感じがする花です(2006.3.28)

水曜日, 3月 29, 2006

濱の真砂は尽きるとも、世にブログの種は尽きまじ

・・・なんて言ってもよいのだけれど、昨日は業務に時間をとられ、また「書く」というモチベーションも盛りあがらず「日記」の更新を見送りました。そして、この「日記」の位置づけについても少し考えています。

梅田望夫氏の『ウェブ進化論』をまだ読み終わっていません。この新書1冊を読むのにもう1週間くらいかかっているような気がします。僕は本当に「読む」のが遅い。・・・それはともかく、この本からまたひとつ「正しい」ブログの活用法を教えてもらいました。「ネット上にこれでもかこれでもかと貴重な情報が溢れるようになってからは、毎朝午前五時から八時くらいまで、ネットに向かって勉強するのが習慣になっていた。その勉強のプロセスをブログで公開してしまうことにしたのである」(上掲書、P168)

やはり、毎日自分を磨く努力があってのよきブログということなのですね。この梅田氏の本を読み始めた時には「項目立てはすごく勉強になるけど、文章はちょっと荒い」みたいに感じましたが、読み進むうちにやはり内容の適切さを高く評価したくなってきました。ウェブ世界とリアル世界の間の「深い河」を渡ってみようという方には、実によいタイミングの案内書です。

【写真】いずれも杉並区の善福寺川と周辺の住宅地で(2006.3.28)

月曜日, 3月 27, 2006

世の中に絶えて花粉のなかりせば

先週末、東京は好天で、あちこちのサクラが咲き始めました。シダレザクラは満開で、ソメイヨシノは2分咲き、場所によっては5分咲きといったところでしょうか。今年の杉花粉は少なめという予報でしたが、それでもこの暖かさになるとかなり「きている」ようです。症状のキツい方には本当にお気の毒です。よりによって桜咲くこの季節に、と思わざるを得ません。

【写真】シダレザクラ(2006.3.25 武蔵野市関前5丁目の桜見公園で)

ところで、サクラの語源ともいわれる木花開耶姫(コノハナノサクヤヒメ)は、ニニギノミコトが一目惚れするくらいのチョー美人だったらしいのですが、同時に産屋に自ら火をつけて夫の疑いを打ちかえすほど強い女性でもあったようです。日本の女性たちの美しさと強さは、この姫に由来するのかも・・・。

【写真】これは何というサクラ?(2006.3.25 同上)
通勤の合間などを利用して梅田望夫氏の『ウェブ進化論』を読んでいるところです。世の中に「何とか革命」というのはいっぱいありましたが、現在進行している事態はそうした「革命」とはまったくレベルも規模も異なります。この本にも述べられていますが、確かにその真の意味について99%の方は気がついていないのではと思われます。

たとえば今、私は、グーグルのブロガーという無料サービスでこの『たろパパ日記』を毎日書いていますが、このサービスを利用するために私のパソコンにプログラムをインストールする必要はありません。それどころか、皆さんがお読みの内容は、すべてグーグルの数十万台のコンピュータのどこかにはあっても、私のパソコンにはありません。多くの方がこのことを知っていますが、同時に、その何十倍もの方がこれを知らないのです。そこに両者を隔てる深い河があります。

日曜日, 3月 26, 2006

春のうららのどんどこ池

昨日は『たろパパ日記』の更新を初めてお休みしました。柳橋保育園のどんどこ会の作業で、園庭に菜の花の植え込み、ジャブジャブ池の掃除などに半日、汗を流しました。太郎たちはどんどこ池からザリガニを次々と釣り上げました。枝垂桜や白木蓮が満開で、本格的な春が来たという一日でした。
【写真】 満開の枝垂桜が美しい (2006.3.25 園庭で)

この日のメインは菜の花の苗を園庭に植える作業でした。当初は2、3人くらいしか集まらない予想だったのですが、好天にさそわれ10人近くのパパやママ、ジイたちが参集し、「ちょうど1年前の今頃、ビオトープが完成だったね・・・」と大変盛り上がりました。写真は撮りませんでしたが、ジャブジャブ池の掃除は、砂利の間にたまった泥をきれいに洗う作業に非常に骨が折れました。どなたか泥のからんだ砂利を「楽に」きれいに洗う方法があったらぜひ教えてほしいものです。
【写真】 菜の花を植える「畑」を耕す作業、園庭の土には石ころなどが多く、耕す作業は大変です (2006.3.25 園庭で)

太郎がザリガニを釣っていると、さとくん、たおっち、まーくん、・・・去年の卒園児たちが次々とやってきました。ビオトープづくりの「主力」となったレインボーメンバーが勢ぞろいといった感じです。
【写真】 この日は大小8匹ほどのザリガニをゲットしました、どんどこ池では小さな魚などが食べられてしまわないようザリガニを捕まえてしまうことにしています (2006.3.25 園庭で)

ザリガニ釣りをする子どもたちの頭上では白木蓮が満開です。園の周辺では桃や梅はすでに盛りを過ぎていますが、白木蓮やコブシ、枝垂桜などは満開です。この日は本当に暖かく、ジャブジャブ池の掃除でも水が冷たいということはありませんでした。東京では今週初めに桜の開花宣言が出されましたが、この日、ソメイヨシノはまだ2分咲き程度、小金井公園あたりの花見が盛り上がるのは来週末になりそうです。ところで、白木蓮とコブシの見分け方をご存知でしょうか。コブシがハクモクレンと違うのは、コブシの花の下には小さな葉がついていることだそうです。
【写真】そういえば去年のビオトープづくりもこの白木蓮の花の下で頑張ったことを思い出しました (2006.3.25 園庭で)

この日集まったパパやママたちと「ビオトープづくりが1年前だったなんて信じられない、もう数年も前のことのような気がする」と笑い合いました。どうしてそんな風に感じるのかよくわかりません。ビオトープづくりがあまりにも努力を集中した日々だったからでしょうか。卒園から小学校へという子どもたちの環境の変化が大きかったからでしょうか。・・・それはともかく、今年もメダカとりやセミの羽化観察会など、去年よりさらにいっそう楽しい企画をいっぱい考えていきたいと思います。どうぞ奮ってご参加ください。
【写真】 作業の途中、園からお茶とお菓子が振舞われました。この日の作業では、この他に子どもたちがサッカーの時に目標にするゴールもつくりました (2006.3.25 園庭で)

金曜日, 3月 24, 2006

念のため・・・

今日(24日)23:30現在、カウンタは999まで参りましたが、1000のキリ番を取っても何のインセンティブも用意しておりませんので、どうぞご承知おきください。ただし、ご連絡くだされば、たろパパの特製感謝メールを差し上げたいと存じます。よしなに・・・・

これからもよろしくお願いいたします

皆さま こんにちわ
以下、本日、友人の皆さまにお出ししたメールをもとに、これまでのご支援へのお礼と総括を申し述べます。この2月12日にグーグルのブロガーで『たろパパ日記』を始めてから明日でちょうど6週間になります。この間、一日も休むことなく更新をして参りましたが、本日中にカウンタを設置した2月18日以来のユニークな閲覧者数が延べ1000人を超えるところまできました。

【写真】野山北・六道山公園でのザリガニ釣行(2006.3.21)
『たろパパ日記』の影響力(?)
この「延べ1000人」という数は、実質1日あたり25人ほどで、その8割がリターニングの方とは言え、客観的には微々たるものに過ぎません。ただし、これは少し前(去年)の話ですが、1日1000人超の読者がいる日本語ブログはそうそうたくさんある訳ではないとのことです。そうしたブログに較べれば、数十分の1の「影響力」しかないと言うこともできます。しかしながら、日本語ブログの総数は1000万件などとも言われますが、その8割ないし9割は書いた本人以外の読者がいないか、つくられたものの実質的に放置されているブログというのが真相のようですので、少数ながら常連の読み手がいてくださる『たろパパ日記』は優秀なブログということもできます。
「炎上」事故はなし!
幸いなことに「炎上」事故も悪意あるコメントもありませんでした(気がついてもらえなかっただけ?という話はあります)。これを始める時に、ずいぶん「危ないから気をつけて」といった警告を頂きましたが、結局、炎上はもとより、いささかの悪意を含むコメントもありませんでした。逆に、ブログ上で、あるいは直接のメールでの励ましや情報交換がいくつも生まれ、ブログのネットワーク形成機能をはっきり感じとることができました。
ブログには強い人脈、ネットワークを創りだす力があります
最初は、私も「ネットを通じた交流で信頼できる人間関係をつくる」ことには疑問をもっていました。しかしそれは間違っていました。「文は人なり」なのです。もちろん文章だけではなく、写真や音声、映像なども表現方法としてあり得ますが、いずれにしろ、飾った文章は飾ったものとして受け止められますし、正直な率直な文章はそのように受け止められます。実にあたりまえですが、ネット上の少しまとまった文章、あるいは継続性のあるブログで完全に他人になりすますためには、プロの作家クラスの想像力、文章力を必要とします。あるブログをざっと読めば、その書き手と知り合いになりたいかどうか、はすぐにもわかります。そして、知り合いや友人になるための方法がたくさん用意されているのがブログです。
ブログには既存の秩序を破壊する力があります
これから10年くらいの間に、日本においてもこの時代の変化に取り残された組織や人々の中には崩壊したり影響力を失ったりするケースが続出するでしょう。私自身のこの数週間の経験においても、まだ直接お会いしていないものの、書いたものを読ませて頂いたりして、「親しみを感じる」あるいは「共感できる」新しい友人、知人と呼んでよい数名の方との交流が始まりました。これまでの友人、知人との交流が一層深まったこと、マスコミの方に直接インタビューしたりといった経験といったことを含めると、ブログにはネットワークという以上に人脈形成力といってよいすばらしい機能が備わっているといえます。
「場」で人は育ちます
もちろんネットワーク形成というばかりでなく、私自身の人間として、あるいは企業活動をする者としての成長に、ブログをきっかけに始まる人間関係は大きく役立っています。ビジネスブログというものについて、コマーシャルの延長という見方もできるのでしょうが、本当の力はブログを通じて培われた人間関係がそこに関係するお互いを成長させるというところにあると思われます。「場」があってこそ人は育ちます。自分も人も、です。
「神の見えざる手」
この社会においては「神の見えざる手」が市場を通じて生産をコントロールすると言われてきました。今、経済において貨幣以上に重要な位置をもつに至った「情報」をコントロールしているのはグーグルの検索技術です。グーグルのウェブ検索は、最近、ついに200億件を超えたというクエリから電光石火のごとく(旧時代の表現で失礼!)答えの候補を引っ張りだします。ブログとこの検索技術が新しい社会、時代を創りだそうとしています。
プロほどウェブでの発言には慎重ですが
このメールをお送りしている皆さまは、そのほとんどが研究組織、学校、企業、そして地域社会で指導的な立場においでの方たちです。これまでの日本の状況では「インターネットは危険」といったイメージが先行して、とくにしっかりした社会的立場をもつ人ほどウェブ上で発言することに慎重でした。これにはいろいろな要因がありそうですが、詰まるところウェブの世界は、記者、研究者、作家、教師、弁護士、翻訳家など言葉を素材として生活しているプロ、あるいは故ドラッカー先生がいうテクノロジスト(医師、技術者など)にとって中身が問われる(レベルが低ければ生活基盤を失う可能性がある)場だからであり、あるいはそれぞれの分野における既存の権威との摩擦が必至だからということでしょう。
あちらの世界に片足踏み入れてみたら・・・
しかしながら、「すでに事は始まってしまった」のです。故ドラッカー先生が言われたように「時代の変化を避けることはできない、できるのは変化の先頭にたつことだけ」なのです。実際、それぞれの分野あるいは現場でそれぞれ専門の皆さまが自由闊達に語り出したら、この世界は遙かに住みやすいところになることは間違いありません。反対に、この「変化」を無視すれば、時代に取り残され、場合によっては職を失うことにもなりかねません。私はまだ数週間の「駆け出し」ブロガーおじさんに過ぎませんが、それでも、あちら(ウェブ)の世界に片足を踏み入れた感覚は明快です。そのささやかな経験からも、どうぞご一緒にこの時代の河をわたっていこうということを改めて呼びかけたいと思います。

以上、1000ビジターズを記念して。今後ともどうぞよろしくお願い申しあげます。ありがとうございました。

木曜日, 3月 23, 2006

おじさんたちは寂しいのだ

今日の朝日朝刊の「ジェンダーフリー」をめぐる記事を読んで笑ってしまった(いや、失礼! )。記事の紹介は省くが、たろパパが見るところ、ジェンダーフリーという言葉に異議をはさんでいる政治家や議員の皆さんは、表向きの理由はともかく、きっと心中、寂しいのだろうと思う。最初にこの言葉を聞いた時にまず理解できなかった。つぎに説明を聞いた時に誤解した。よく調べようと思った時には英語の壁が邪魔をした。秘書にネットで検索させてもあいまいな答えしか返って来ない。どうも最近の世の中は自分たちとは違う価値観で動いているようだ、自分たちは無視されている・・・。

【写真】 善福寺川で、桃か梅でしょう (2006.3.7)

ここであっさり引き下がらないところがこの世代の強いところで、自分たちが権力を握っていることをいいことにいきなり「使用禁止令」を発する。これで問題がこじれる。「君が代」問題とだいたい構図は一緒だ。それでは今後10年もすれば、こうした世代もだんだん死に絶えて影響力を失っていくのか? そうかもしれないし、そうでないかもしれない。それは何とも言えない。ひとつだけ言えることは、こうしたことを言いがちなおじさん達にはもっとやさしくしてあげなければならないということだ。

だって、彼らは寂しいのだ。「女性差別反対!」と喰ってかかるのもよいが(そうすれば彼らに自分たちが世の中から忘れ去られようとしている訳ではないという慰めを与えることができる)、そうではなく、やさしく諄々とむずかる子どもをあやすように教えてあげたらよい。僕らは「ジェンダーフリーという用語を禁止した世界に稀なる国」などということでニュースになりたくはないのだ。頼むぜ、上野教授!

【お知らせ】 「おじさん」とは「カラオケで英語でビートルズを歌う世代」という説もあります。こうした世代のために、本日からこのブログのサイドエリアに「おじさん支援」リンクをつくりました。どうぞご活用ください。

水曜日, 3月 22, 2006

野山北・六道山公園ザリガニ釣行

昨日の春分の日、東京では桜の開花宣言が出され、暖かく穏やかな日和となりました。たろパパは友人の親子に誘われて武蔵村山市の野山北・六道山公園に「ザリガニ釣り」に行ってきました。暖かいといってもまだ春爛漫という時期にはやや間があります。木々はまだ冬姿ですが、すでに田起こしがされていました(写真右)。ここは都立公園で、こうした田では「里山体験」としてもち米や赤米の栽培が行われているようです。

最初は「まだ寒いしザリガニなどいそうもないなあ」とか言っていたのですが、子どもたちはつぎつぎと元気なザリガニくんたちを釣り上げました。ザリガニを持って帰ると強硬に主張する子もいましたが、パパやママたちとずいぶん話し合いがあって、すべて池に戻しました(写真左)。子どもたちも成長したものです。

水中にはトノサマガエルのものでしょうか、ソフトボール大の卵がありました。ちょっと気味悪い感じですが、ここからもうすぐ無数のオタマジャクシが生まれてくるんでしょう(写真左)。
この日は「いずれザリガニ釣り企画をする場合の偵察」と考えて行ったのですが、天気もよく4家族10人ほどのグループ行となりました(写真下)。


「トカゲのしっぽはほんとうに切れるの?」「あっ、切れた」「血が出ない」とか。たろパパにはカナヘビをいじめているようにしか見えませんでしたが(写真左)。
帰り際に、子どもたちは公園の施設である「里山民家」で井戸をみつけました。大喜びで遊んだのはいうまでもありません(写真下)。
【注意】野山北・六道山公園の里山民家に駐車場はありますが、公園周辺は住宅地で狭い道路となっています。とくに小さい子どもの交通事故には充分に気をつけて下さい。

火曜日, 3月 21, 2006

「2つの世界」またはマスコミの惰眠について

梅田望夫さんの『ウェブ進化論』がベストセラーになっています。私はいずれその読書感想文を書こうと思っていますが、こうした本が日本で売れること自体、今、起こりつつある巨大な「地殻変動」について、多くの日本人がほとんど意識していないことの裏返しであるように思われます。この地殻変動について、日本ではさしあたり「ウェブの世界と現実の世界」といった「2つの世界」が並存していると捉えられているようですが、そうではありません。

【写真】たろパパが小さかった頃は三角ベースで野球をやったが、
今はダイヤモンドを描くようだ(2006年3月、近所の公園で)

昨晩放映されたNHKスペシャル『テレビとネット・アメリカ最前線リポート』で、たろパパは解説委員の方が、マスコミの報道内容が精選された客観性の高いものであるのに対し、ブログは主観的なところが欠点であると、あたり前過ぎるほどあたり前なことを「批判」しているのが気になりました。

そんなことは揚げ足取りでしょう。問題はブログが主観的という点にあるのではなく、マスコミがブログの台頭に象徴される時代の変化の大波にどのように立ち向かっていくかというところにあります。マスコミが「ブログ批判」をして何になるでしょう。自らの無能を証明するだけではないでしょうか。それに人々はマスコミの報道がすべて客観的で精選されたものなどとは考えていません。ことさらメディア・リテラシーとか言わなくても、緊張感のない退屈なニュースと注目すべきニュースの区別くらい誰でもつきます。また、NHKと朝日新聞が「言った、言わない」みたいなバトルを繰り広げても「どっちもどっち」くらいに醒めた眼でみている、とたろパパは思います。マスコミの皆さんが考えているほど人々はマスコミを信頼している訳ではないのです。

「2つの世界」が並存しているかのようにみえるのは、日本語というあるかなきかの情報障壁に守られた情報孤島、情報小国にいて惰眠をむさぼっているからではないでしょうか。足元には奈落が広がっています。もしマスコミがそのことに気がついているなら、とても「ブログ批判」をして役割りを果たしているなどと錯覚することはないはずです。
(ここまでの書き込みは2006年3月21日20時頃 JST に更新したものですが、ブロガーのシステム障害らしく3月20日の扱いになっています)

【追記】昨日のNHKスペシャルを受けての第二夜を今放映中です。「徹底討論 テレビは誰のものか」がテーマです。番組は間もなく終了しますが、「NHKが公共放送である」ということ自体を疑う、あるいは見直そうという意見がまったくなかったことに失望しました。言うまでもなく日本の放送でNHKほど水準の高い、内容の豊かな番組をたくさんつくってきたところはありません。民放の退屈な番組のたれ流し状態と較べると、それは際立ちます。にも関わらず、NHKもまた根本的な出直しを迫られているということに関する危機感がなさ過ぎます。たろパパはこれまで一度もNHKの受信料なるものを払ったことがありません。これまで少しは「払うべきかな」と考えたこともありましたが、今日の討論をざっと聞いて「やはり払わなくてよい」と感じました。NHKの代表の方々が「国民の皆様の受信料で運営されている」と語る言葉に「真」が感じられません。逆に隠された傲慢の匂い、あるいは惰眠の退廃の匂いがします。

月曜日, 3月 20, 2006

明日は春分

今日は月曜日でまた新しい週の始まりですが、明日が「春分の日」でお休みなので少し変わった気分です。ところで「春分の日」「秋分の日」の日付は必ずしも毎年同じ日ではありません。以前、行政オタクの方からお聞きした話によると、霞ヶ関付近の某庁にはこの「春分、秋分の日を何日とするか」を閣議で決めた後、これを官報に掲載することのみを業務とする係があったとか。ずいぶんのんびりしたことで、恐らくもう今ではこういう係はリストラされたに違いありませんが、それはそれでちょっと寂しいことかもしれません。

【写真右】 花はタンポポなのだが、葉や茎が高く立ち上がって、普段みかけるセイヨウタンポポとは少しようすが違う。萼片が反り返っていないし、ひょっとしてこれが日本のタンポポだったりして・・・んなワケないか! そうだ、これはタンポポじゃなくて、きっとノゲシに違いない(2006.3.18 ポンポコ池のそばで)

昨日の東京は、天気はよかったもののひどい強風が吹き荒れ、花粉症なりかけのたろパパも咳は出るわ涙はでるわで大変でした。もう今さら都市近郊の杉林をなくすこともできないのでしょうが、なんとか根本的な解決を考えてほしいものです。

【写真】強風で土埃やら花粉やらが舞い上がり、
中央線の電車も霞んでみえた(2006.3.19)
 たろパパ個人企画 飲み助パパ集まれ! 
3月22日(水) 19時から21時 場所 2nd Coming(中野新橋)
※申し込み等不要、現地集合・現地解散、飲み過ぎ注意!

日曜日, 3月 19, 2006

宇宙の大きさ

昨日はご近所の親子と一緒に「国立天文台4次元デジタル宇宙プロジェクト」を見に出かけた。往く道々、親同士「4次元ってどんなんですかね?」とか言いながら行ったのだが、これはまたスグレモノ、太郎も感動、パパも感心、みたいな教室でした。だいたい「宇宙の大きさ」ってどれくらい? とか聞かれても、文理雑居系のたろパパにはわからなかったのだが、だいたい「130億光年」くらいらしいということがわかった。もっとも、たろパパは、この「光年」について、後で太郎に説明しようとして何度も間違えた。教室が終わった後のアンケートでは、太郎が「説明はわかりやすかった」にマルをつけろと(もちろん、かなり「背伸び」して)言っていたので「ものすごく大きい」とか「ムゲンと同じくらい大きい」くらいには理解したのかもしれない。
【写真上】 これが宇宙の「全体像」(らしい)
【写真下】おふざけが好きな子が約1名いた(2名かもしれない)
国立天文台の職員の方の説明は、レベルを落とさず、しかも小さな子供にもわかりやすいようにと工夫されていたとは思う。ただし、やはり「太陽と地球の距離を1天文単位とすると」とか、「光が1年間に進む距離が1光年」とか、まあ、それ以上わかりやすくと注文する方が無理なんだけれども、さすがに小学校の低学年では難しかった。とは言え、3Dメガネをかけて見る立体的な宇宙の姿は広大かつ美しい。この教室は「出前講座」のような企画であちこちで催されるらしい。たろパパお奨めプロジェクトです。

【写真】始まる前に国立天文台の職員の方の丁寧な説明がありました ありがとうございました

土曜日, 3月 18, 2006

隠すほどに現る

官庁や企業からの情報流出が止まらない。プロバイダや通販企業からは、個人の名前、住所、電話番号、勤務先、家族構成、資産関係。さらに購入した書籍の名前やホームページの閲覧情報、パイロットのPCから空港の出入口のパスワードというのもあった。警察の捜査記録や軍事情報まで流れた。いやもう、逆にたろパパは、世の中に秘密というか、隠すべき情報がこんなにいっぱいあることのほうに驚いている。もちろん情報を適正に管理するということは、今の社会で必須の機能であって、これがなければ安心や安全はないだろう。

だが、である。「隠すほどに現る」と昔の人は言った。国家による情報統制の典型は、戦前の日本、崩壊したソビエト連邦、グーグルさえ妥協させた中国あたりか。数年前、百万件単位の個人情報を盗まれたソフトバンクは、その後、傍からみても不可能と思えるほど厳しい情報管理方法を導入したとのことだが、それにしてもデータそのものを放棄した訳ではあるまい。逆説ではあるが、データ管理を厳しくすればするだけ対象データの「価値」は上がり、管理を破ろうとする者のモチベーションを高めてしまう。究極のところ、「伝える」のが情報の存在価値だとすれば、そもそも「完全な秘密」「完全な秘密保持」というのはあり得ない。「完全な秘密情報」というのは言葉の矛盾に過ぎない。


【写真】 野の花さん、あなたの美しさ、あなたの可憐さの秘密は何ですか?(2006.3.18 ポンポコ池で)

金曜日, 3月 17, 2006

わらべうた

ちゃーりっぷ
ちゃーりっぷ
おんりきりきりき
あっぷっぷ
たろうくん
はなこさん
はい
おめでとう
2005年3月、保育士の皆さんや園児のみんながうたうこの唄に送られて、太郎たちが柳橋保育園を卒園してちょうど1年になります。柳橋保育園がわらべ唄を園児の教育に取り入れたのは1980年代以前にさかのぼるようです。長く園においでの先生から「わらべ唄を調べるために多摩の奥のほうまで出かけました」というお話しを聞いたことがあります。その取り組みは『いまなぜわらべうたか / 羽仁協子講演集』にまとめられているとのことですが、私は残念ながら絶版になっているこの本をまだ読んだことがありません。
【写真】 まもなく卒園式が始まる(待機室にて) (2005.3.20)

柳橋保育園の行事には、他の園などでみかける「保護者にみせるためのお遊戯」はありませんので、なかには園児たちがわらべうたを唄う姿を知らないパパもいるようです。昨年の正月、たろパパは、ちょうどビオトープづくりが始まった頃、隣接する緑寿園(高齢者施設)の庭で行われた「どんと焼き」の行事を取材する機会がありました。身に凍みる寒気の中、「ひとつとせー・・・」で始まる祝い唄(数え唄)を唄いながら近隣の保育園の園児たちが集まってきた時には、かつてラフカディオ・ハーンが描いた近代以前の日本の原風景といった趣きすら漂っていました。あの子供たちの歌声に本当に心が洗われました。

今の時代、子育てはとくに母親にとって重い負担で、保育所の整備など子育て支援の施策の必要性がいわれます。こうしたことはもちろん非常に大切なことですが、同時に、子どもたちを育てるためには、施設や保育士の整備・確保といったことのみならず、ほとんど芸術的とすら言える保育のノウハウ、蓄積が必要ということを、この園の実践をみていると気付かされます。もし園児の保護者の方がこれを読んでくださっていたら、ぜひ機会をとらえて子どもたちのわらべ唄を聞いてみてください。きっと素晴らしい発見があるに違いありません。

【写真】新年のどんと焼き 園の保育士の皆さんは地元の和太鼓グループの方々のご指導でいつも熱心に練習しています このどんと焼きの時には子どもたちが「せんせい、カッコいいー!」と熱い声援を送っていました(2005.1.7 緑寿園園庭で)

木曜日, 3月 16, 2006

本格的なウェブ時代が来るのはこれから

何をもって「本格的なウェブ時代」というのかが、まずは難しいけれども、例えばブログのシステム基盤と実際の普及度合いの落差は大きく、今後、ブログ人口が大幅に伸びていくことはほぼ間違いないだろうと思います。では、今いったい日本にブロガーは何人いるのでしょうか? 100万人? 500万人? 1000万人? 総務省の報告書(2005/5)や Bloglines のページなどをみても実際のところはよくわかりません。

もっと確実なカウントの仕方は、皆さんの友人や知人で(たまにでもよいから更新している)ブログをもっている方の数を調べてみることです。それが10人に1人なら1000万人、100人に1人なら100万人です。1人、2人、3人・・・ブログ教室とかに通っている場合は別として5人以上知っているという方は稀なのでは? ということはまだまだ普及していないということです。そして、本格的な増加はこれからだということです。実際に現時点では、毎日、何千、何万人という方が新しくブログを始めています。

一方で、情報発信の手段としてこれほど簡単で機能が優れたものも他にはなかなかありません。昨日のコメントにも書いたのですが、「本当か嘘かわからない」という印象をもつ方が少なくないマスコミより、信頼できる知人や友人が書いていることの方を信じる方がいずれ多数になるのは間違いありません。その時にこそ「本当のウェブ時代」が来たことになります。・・・どうです、あなたも始めてみませんか? つくるだけなら5分ですよ! しかもお金がかかりません。リタイアした方が長年蓄積した専門知識を披露したりするのもよいし、お年寄りの介護予防にもきっと大きな効果があると思うのですが、いかがでしょう。

【写真】 「どんどこ池の四季 2005 春・夏」のハガキセットから「水無月」 (2005年9月 至誠学舎東京 柳橋保育園 制作)

水曜日, 3月 15, 2006

人を誹らば・・・

お早うございます
昨日の東京はすごく寒かったのですが、今日は一転して暖かくなり、オフィスの中は軽く汗ばむほどです。恐らく花粉がいっぱい飛ぶんでしょう。街では外科医の手術用みたいなマスクをした皆さんをたくさん見かけます。

最近、親しい知り合いから都立高校に通うお嬢さんの卒業式のようすをお聞きしました。この方は君が代を歌わされるのがイヤで、これまで子どもたちの入学式や卒業式のほとんどを欠席で通してきました。ところが、これが最後の機会ということで、迷いに迷った末、今年は出席したとのことです。ところが行ってビックリ。この高校の場合、標準服はあるものの制服はなく、振り袖、袴着、スーツ、セーラー服、標準服、果てはコスプレチックなド派手衣装までが混在し、まるでお花畑状態だったらしい。おまけに注目の君が代はピアノ伴奏のスピードが速く、ほとんど誰も歌わない(歌えない?)状態でバタバタと進行したらしい。アハ!

【写真】 昨日に引き続き、「どんどこ池の四季 2005 春・夏」のハガキセットから「皐月」 (2005年9月 至誠学舎東京 柳橋保育園 制作)

ポスト団塊世代のたろパパの高校卒業式の時は、勇ましい奴がいて「卒業式フンサイ!」とか言いながらいきなり壇上に駆け上がったはいいけれど、教師連中に両手両足をしっかり掴まれて降ろされるという「事件」がありました。これは同級生の間での語り草になっています。えっ、私ですか? たろパパは付和雷同組で、だいたい周りのようすをみてウロウロしておりましたけれども、はい。それはともかく・・・

この君が代を巡る問題について、私は都教委がどうしてここまで意固地になって先生や生徒たちを従わせようとするのか理解できないし、こんなことで処分される先生たちが可哀想でなりません。反対に都教委の皆さんについては、ここまでやって大丈夫なのかなという心配もします。教育委員会という組織としてやっているのでしょうが、ちょっと風が吹けば攻守は入れ替わり、皆さんの人生がお望みにならない方向に変わってしまうということも大いにありそうです。昔は「永久に」記録が残るのは学籍簿くらいだった訳ですが、今のこのIT時代には誰がいつ何を語りどう行動したかみたいなことは、本人のあずかり知らぬところで実際に永久に残っていく可能性があります。この『たろパパ日記』のようにグーグルのサービスでやっているところはとくにその可能性が高いことになります。話が横道にそれましたが、昔、たろパパがまだ「元気」だった頃に、ある先輩に「人を誹らば穴二つ」と諭されたことがありますが、とりわけこうした思想とか政治主張に深く関わる問題はいろいろな意味で「両刃の剣」です。

例の民主党のガセメール問題の時、『増殖する俳句歳時記』の清水哲男さんが「どっちも電子メールの仕組みをちゃんと知らないんじゃないか」みたいにツッコミを入れておいででしたが、この君が代をめぐる前時代的な争いを見ていると、日本という情報孤島の中で無駄なエネルギーが大量に浪費されているという思いに駆られます。そして、子どもたちの心が育つべき場、人間に対する興味関心を育てるべき場で、こういう子どもたちそっちのけの争いはやめてほしいと強く願います。

火曜日, 3月 14, 2006

トリン・フォー・トリン

昨日、またクルクル社の優秀なエンジニヤの皆さんとお話しする機会があって、盛りあがったついでに「ブログ始めたらいかが」と勧めたら誰も乗ってきませんでした。うーん、だいたいこういう理系の方たちは人付き合いもあまり上手とは言えず、コミュニケーション能力の不足を問題とも思っていないようです。というより、自分の意見を人に伝える訓練の機会がなかったのかな、って思いました。その意味で・・・

【写真】 昨秋、柳橋保育園ではビオトープ「どんどこ池」ができてから半年間の子どもたちと自然の係わりを「どんどこ池の四季 2005 春・夏」というハガキセットにまとめました。これはそのうちの1枚「卯月」。(2005年9月 至誠学舎東京 柳橋保育園 制作)

先に幼児教育のトリン・フォー・トリンに触れましたが、デンマークでのそのようすを、改めて村上龍さんのJMMメルマガに高田ケラー有子さんが書いた文章から(少々長くなりますが)引用してみます。

ゼロ年生の時間割はごく単純なものですが、その中で特徴的なのは、"Trin for Trin ( =Step by Step)"と呼ばれる時間があることだと思います。ゼロ年生は基本的に勉強を始めるための準備期間としてあるわけですが、この "Trin for Trin"の時間は、ある1枚の写真を見ながら、そこにいる人の気持ちや感情などを推察したりすることから、相手を思いやる気持ちや、人と人は違うのだということを学んでいきます。そこには「何が正しい」という前提が存在せず、子供たちにさまざまな意見を出させることと、「考えてみること」に重きが置かれています。これは机の前で椅子に座って先生の話を聞くのではなく、教室の空いているスペースに椅子を並べてサークルを作って、先生が見せる写真を見ながら話が進められます。

私たちが参加した月曜日の授業にもこの "Trin for Trin"がありました。この日の写真には二人の女の子が写っており、一人はパズルゲームをしたがっているのですが、もう一人はしたくない様子です。その様子を見ながら、先生からさまざまな質問がなされていきます。「この子は遊びたくないの?」「この子はこの子が嫌いなの?」「じゃあなぜ遊ばないの?」と言った具合です。そうしていくなかで、人には同じ事でもしたい時としたくない時がある事。それをわかってあげることも大切である事。もし、自分がしたくなくても断り方にもいろいろあること、などなど、一緒に考えていきます。日常的な例もあげながら、子供たちが自分で考える時間を与えます。

この "Trin for Trin"は、比較的新しい教材でオリジナルはアメリカのものだそうですが、それがノルウェーに渡り、そこでスカンジナビアの人々にフィットする翻訳がなされ、北欧諸国の初等教育機関で使われている、ということのようです。この日の"Trin for Trin" では、人には選択する自由がある、ということもその写真から学んでいくのですが、最後に「選択の自由」を試す遊びもあり、子供たちが楽しく学べる工夫がなされていました。(ここまで引用、JMM [Japan Mail Media] No.297 2004年11月18日発行『平らな国デンマーク/子育ての現場から』(第19回)「ゼロ年生の学校生活」より、高田ケラー有子さんは造形作家でデンマーク北シェーランド在住)

こういう幼児教育の方法の話をすると「日本では無理だよね」というのが大方の日本人の反応で、私もそれは無理もないと思います。日本の学校というのはとにかく「教える、覚える」ことが中心で、考えさせることや生徒の興味を育てることを軽視しがちです。私の親族にも学校で教えている方は少なくありませんが、先生たち自身が「たくさんの知識を身につけることが優秀」という原理で選抜されてきていますので、この社会のほとんどの問題について回答がみつかっていないこと、回答はひとつではないこと、知識自体より解を求める行動、そしてそれを支える興味関心つまりモチベーションの方が何倍も大切であること、人は他人とのコミュニケーションを通じて解に近づいていくこと、総じて答えそのものより答えを求めようとする意思の方が大切なこと、等々について、建前はともかく実際にはほとんどわかっていません。そして、こういう先生たちに教えられた生徒たちが就職しても、実務にはほとんど役に立たないということになります。

月曜日, 3月 13, 2006

今日で1か月

今日でこの『たろパパ日記』は30日目になります。ネットのよいところ、あまりに凄すぎるところ、そして、怖いところと、いろいろ勉強になりました。幸いなことに少数ながら毎日読んでくださる心やさしい皆さまに恵まれました。どうも、ありがとうございます。そして、これからもよろしくお願いします。また、太郎には題材をもらうだけでなくいろいろ助けられたと思います。ありがとう!

【写真】善福寺川のカモ(2006.3.7)

昨日の太郎の絵と文は、昨年春のできごとで、野球のまねごとをしている時に私の投げたゴムボールが太郎の顔にあたった途端、「パパのバカ・・・」と大泣きして家に駆け戻り、リビングで何か熱心に書いているなと思ったらこれでした。

グーグルのオーガニック検索の威力の凄まじさもまざまざと感じました。私もこれが本当の個人の日記だと思って書いている訳ではありませんが、かと言って、たどたどしくもつたない文章が多くの方の目に晒され、ひょっとするとこれから数千年後にも残るかと思うと腰が引けるところがあります。まあ、数千年後はいいとして、10年、20年経って世界のどこかわからないところにあるサーバの自分の文章を読むというのは苦痛かもしれません。

もっとも、こういうブログを書くことはとにかく自分の勉強になります。本を読む場合もいい加減な読み方ができなくなりますし、文章修行という意味でもわずかながら進歩があったように思います。そして、何よりもこのブログを通じて知り合うことができた皆さまとの絆が、私の大きな財産になっていくことは間違いありません。

いずれこの『たろパパ日記』については、太郎や彼の友人たちがもう少し大きくなったら書き手として加わってもらい、改題して彼らのチーム・ブログにしたらという腹案をもっています。その時、たろパパは引退して管理人になります。シンガポールやニュージーランドなどのブログには、たまにこうした子どもたちのチーム・ブログがあります。よい試みと感じます。

どうぞこれからもよろしくお願いします。気が向いたらどうぞコメント下さい。そして、まだブログをお持ちでない方は「思い立ったが吉日」です。今日からでもいかが? お薦めします。人生変わりますよ!

日曜日, 3月 12, 2006

ぱぱのたぬくそ

5がつ15にち
にちようび
だい ぱぱのばーかあーほどじまぬけへーんたいくそばばあ
あるひにぱぱわ50ねんもいきているのにぼーるおなげるこんとろーるできないませんそれでぼくのかおへなげた(2005.5.15)

土曜日, 3月 11, 2006

JANJAN市民記者交流会を覗いてきました

今日の更新はお休みのつもりでしたが、交流会後の懇親会が比較的早く終わったこともあり、その感想をお送りします。この書き込みにどういうタイトルをつけるか迷いました。
「2チャンネルの裏側・・・たろパパ、西村博之氏に突撃インタビュー!」とか
「JANJAN社長は語る・・・年間1億ビュー獲得でオーマイニュースを迎え撃つ」とか
【写真】懇親会であいさつするJANJAN代表取締役の竹内謙氏(2006.3.11 中大駿河台記念館)

...考えましたが、止めることにします。こういうのは、たろパパ日記にちょっと合いません。因みに西村氏は2チャンネルの管理人で、交流会の人気者となりたくさんの皆さんに質問攻めにあっていました。また、オーマイニュースに関してJANJANは、交流会の席上、韓国の市民ネット新聞オーマイニュースがソフトバンクと提携して日本で事業展開することについて歓迎するということを言っておられました。ただし「年間1億ビュー目標」は本当です。まあ、こういうお話しを聞きたい方は、どうぞたろパパを居酒屋にでも誘ってください。生中一杯でいっぱいお聞かせしましょう。

さて、今日の交流会(シンポジウム)と懇親会ですが、約180名が参加して大いに盛りあがりました。JANJANは日本インターネット新聞(株)が運営する市民記者方式のネット新聞で、編集部などの基幹スタッフが20数名、登録済みの市民記者が約3000人いて、1日のページビューが約10万とのことです。社長の竹内謙氏は元朝日新聞編集委員で、たろパパは懇親会の折り、チョロチョロっとすり寄っていって意地悪な質問をいくつかさせて頂きました。はい、気骨あり熱あり見識ありという方で、たいへん好い印象を抱きました。恐らく旧きよき(そして熱き)時代を記者として過ごされた方なのでしょう。

そして、今後の日本のネット新聞はどうなるかという点ですが、多少大胆なたろパパの私見を箇条書きにするとつぎのようになります。
1)基本的にかなりのペースで成長していき、市民記者数は数年以内に3万人くらいにはなるのではないか
2)成長のためにはJANJANのよきライバルが必要だが、オーマイニュースがそうなるかどうか、あるいは第3のいわばダークホースが現れるのかはなんともいえない
3)成長の絶対条件は記事の質の高さで、市民記者の自由な興味関心を活かしながらレベルの高い記事に仕上げることがポイントとなる
ついでに言うと、朝日新聞に限りませんが、既存のマスコミは、記事に対する読者の心からの信頼を回復できなければ、いずれこうしたネットメディアに追い抜かれる日が必ず来るという印象を受けました。JANJANさん、どうぞ頑張ってください。期待しております。

【写真】交流会(シンポジウム)の風景(2006.3.11 中大駿河台記念館)

今日はお休み致します

この『たろパパ日記』、2月12日以来、今日まで丸4週間休まず続いてきました。何でも三日坊主の私としては驚異的な頑張りでした。でも、今日はお休みします。このページのリンクにあるJANJANというネット新聞の「市民記者懇談会」をひやかしにいこうと思います。結果はまたご報告致します。それでは!

【写真】柳橋保育園ご自慢のパティセリ(2006.2.18)

金曜日, 3月 10, 2006

朝日新聞のジャーナリスト宣言について

昨日の「人の世に言葉なかりせば」に、とむさんからコメントを頂きました。そのお返事にも簡単に紹介しましたが、この「宣言」キャンペーンについては、あちこちのブログでさまざまに議論されているようです。氷山の一角を掘った程度かもしれませんが、以下、簡単に整理しておきます。
「ジャーナリスト宣言」の内容と経緯
「言葉は感情的で、残酷で、ときに無力だ。それでも私たちは信じている、言葉のチカラを。ジャーナリスト宣言。朝日新聞」
朝日新聞社によれば、この創刊127周年記念日から展開されているキャンペーンは、「NHK番組改編」報道問題や虚偽メモ問題で傷ついた同社への信頼を回復するために行っているものとのことです。私は、通勤途上の総武線のある駅でポスターに大書されているコピーをみかけ「なんか恥ずかしいなあ」と感じたのが最初でしたが、あちこちのブログを覗いているうちに「千里山一里」さんのところで、思わずコメントをつけてしまいました。
【写真】中央線荻窪駅北口の風景 ビッグイッシューを売るおじさんがいた(2006.3.8)

千里山一里
千里山一里さんは、広告研究がご専門のようですが、映像や写真と言葉のインパクトの違いとコピー内容の食い違いを指摘しながらも、「適切で良い広告である、と思う」とされています。ここから議論が始まり、千里山一里さんの丁寧な「受け」を交えて言葉が交わされていきます。私自身は、少々大げさかもしれませんが、朝日新聞社はこの宣言を撤回すべきと書きました。それはともかく、このサイトでの議論の流れからみると、この「宣言」が広告としてどうかという範囲を超えて、社会の公器としての新聞社の姿勢を問う意見が強くなってきたと、私はみます。

経営の視点からみると、恐らくこれだけ反発や批判を受けるであろうコピーを採用するかどうか、当然、朝日社内での議論はあったのだろうと思いますが、問題はこの社内での議論がどこまで広くかつどれだけ真剣に交わされたのかという点にあります。朝日新聞は虚偽メモ問題で「解体的出直し」を決意しているということですが、新聞社としての基本姿勢に関わるキャンペーンをめぐる社内の議論ですから、仮に「言葉のチカラを信じる」派と「そんなの恥ずかしいからやめろ」派が激突して社が分裂するくらいまでやってもいいと、私は思います。しかしながら、そこまでの議論があったという話はあまり聞こえてきません。こういう組織はダメです。

小田嶋隆さん『偉愚庵亭憮録
小田嶋さんは「あれのCMをテレビで見ると、微妙にはずかしい気持ちになる。なぜなんだろう? おそらく、朝日新聞社自身が、自分たちの『言葉のチカラ』を信じていないように見えるところがイタイのだと思う」と鋭く指摘しています。そして、この小田嶋さんのページにつけられたコメントは、いやもう皆さん、ボロクソにこのキャンペーンを酷評しています。まあこのようにスグ盛り上がりやすいのが「ブログのチカラ」ではありますが、「一体、ここまで書かれても朝日側には公式のリアクションはないのか?」という気にもなってきます。
【写真】中央線荻窪駅北口の風景 昔の荻窪しか知らない方は驚くかもしれませんね(2006.3.8)


内田樹の研究室
内田先生は「朝日は自覚していないだろうが、これは言語についてのひとつの党派的イデオロギーの宣言である」と、もうそれこそ言語論をベースに本格的に批判を展開されています。とりわけつぎのフレーズに私は得心がいく思いでした。因みに私は不勉強でラカンもその後に触れられるウィトゲンシュタインも読んではおりません。
しかし、ラカンが書いていることはすこしでも集中的に言葉を書き連ねた経験のあるものなら直感的に知っていてよいことである。
「私は私が書いている言葉の主人ではない。むしろ言葉が私の主人なのだ。」
「言葉の力」とはそれを思い知る経験のことである
今、新聞社はインターネット時代の大きな地殻変動にさらされています。恐らくこれから数年の間に大半の地方新聞は経営危機に見舞われるであろうし、朝日、読売といった大新聞も倒産の危機に陥ることはないとは言い切れないでしょう。NYタイムズもワシントンポストも、ウェブ時代に生き残るために必死のトライを続けています。こうした中で出された「ジャーナリスト宣言」が朝日新聞社崩壊への記念碑とならないよう心から祈っています。これはけっして皮肉などではありません。先の千里山一里さんのブログにつけたコメントで書いたとおり、私は小学生の頃からほぼ40年間も同紙を読み続けてきた「忠実な朝日読者」ですから。

木曜日, 3月 09, 2006

人の世に言葉なかりせば

「世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」という在原業平の古歌を思い出す季節がまもなく来る。花を愛で、酒を楽しんで、穏やかに過ごしていられれば言うことはないのだが、どうも世の中はそのようにはできていないらしい。昨日、経産省の現役部長である谷みどりさんの個人ブログが電気用品安全法に反対する書き込みで「炎上」したという新聞報道があった。私の周囲には「官僚がブログやってどうする」みたいに言う方もいるが、僕自身は谷さんに同情したいと思う。
【写真上】この花も私には梅か桃か判断がつかない(2006.3.7 善福寺川)

人間は言葉をもつ動物だ。人間以外の鳥や動物も鳴き声を生きるための手段として使うが、人間の言葉は他の動物の鳴き声などとは異なる。「考えてみれば、人類が抽象概念として『敵』を規定し、抽象概念としての『憎しみ』のもとに殺人を行うことがあるのは、言語があるからこそである。我々は言語ゆえに自らを滅ぼしかねないのである」(ブックガイド『心の科学を読む』所収、岡ノ谷一夫)
利害得失が複雑に絡むこの社会で、官僚が個人ブログで政策を論じることの是非についてはきちんと考えなければならないとしても、一般に「言葉」あるいは「言葉のもつ力」について、僕らはもっと明確な認識をもたなければならないように思う。人間は言葉がなければ社会を築くことができない、つまり生活していくことができない。言葉は人間そのものといってもよい。たった一言で人は傷つく。こんなことは、社会人であればほとんどの方が身にしみてわかっていることだ。僕は古典のことをあまり知らないが、きっと在原業平さんだって言葉のもつ力、そして、その良い面も良くない面も充分にわかっていただろうなと思う。そうだ、在原業平さんのことをもう少し調べてみよう! もちろんモノの本ならぬ「モノのウェブ」で。(皆さんは何かを調べる時に図書館に行くことが極端に少なくなったと思いませんか? 僕はモノグサだから元々図書館には行きませんが)
【写真下】「熱心に」餌を狙うコサギ(2006.3.7 善福寺川)

水曜日, 3月 08, 2006

春のうららの・・・

皆さま、おはようございます
ここ数日、アマテラス・グーグル神とスッタモンダしたため、どうもせわしない記事が多かったことを反省し、少しの間、写真を中心に春うららの東京風景をお送りしていきたいと思います。
【写真上】は、昨日(2006.3.7)夕刻の善福寺川沿いで撮った梅か桃の花です。梅などは種類があまりに多いこともあり、種類について正確な判定はしかねます。
【写真中】は、これも昨日夕方の善福寺川の風景、なつかしい想いをされる方もおられると思います。
【写真下】は、同じく善福寺川で羽繕いをする水鳥です。羽根の模様が鮮やかですね。
ついでに、荻窪ローカルな話題を続けますが、たろパパお気に入りのバーテンダー、中山桂吾さんが近く独立されて、中野新橋に新しいお店「2nd Coming」を開きます。最近はスコッチについて蘊蓄を傾ける方も少なくありませんが、そういう皆さんにもきっと気に入ってもらえるお店になりそうです。どうぞ贔屓にしてあげてください。

火曜日, 3月 07, 2006

何という不注意、なんという不運!

たろパパの勤務先は、お金がなくて年中コマネズミのように走り回っておりますので、仮にクルクル社と呼ぶことにしますが、このクルクル社のメンバーはいわゆる鉄ちゃん(鉄道ファン)をはじめ、乗り物、機械、カメラ、軍事、健康、選挙、そしてコンピュータ等々を趣味にする皆さんが多く、オタク系企業と言われる場合もあります。なお、最後の「選挙」趣味というのは、単に自分が選挙に行くことを趣味としているわけではなく、全国津々浦々政党政派の主張の如何を問わずやたらと裏事情を詳しく研究しているという意味です。どうぞ誤解のないようお願いします。

で、昨日、そのクルクル社のお一人でコンピュータに異常に詳しい方に、「グーグル様による”たろパパ”の検索結果がその時々で変わるのはどうして?」と聞いたところ、たちどころに答えらしきものが見つかりました。らしき、というのは、もはやこの電子ワールドで神様以上の存在になっているグーグル様の心のなかを外から伺い知ることはできないからであります。さらに、この神様はその心の中をなかなか明かさず、あれこれ斟酌されることすら嫌っているようにみえるのであります。それはともかく・・・
「たろパパ日記」のURL   http://taropapa.blogspot.com/
「TAROPAPA'S Black-Lab-」 http://taropapa.jp/
どうも答えはここにありそうです。この下段のURLは、面識はありませんが、私と同じく「たろう」というお名前の息子さんをお持ちのパパのホームページで、トップページにはそのたろう君と黒のラブラドル犬の写真が載っています(かわいいですね!)。「taropapa.jp」というドメインを取得されている訳で、私がブロガーという多言語対応のサイトでブログを設定した時にもっと注意すべきだったのでしょう。あるいはもっと早く気づくべきだったということです。

一方、グーグルはブログの急速な普及への対応として、ブログページを普通のホームページとどのように区別するか大いに頭を悩ましてきたらしいのです。この辺りの事情を説明すると長くなりますので一言にしますが、要はブログでのリンクの一種であるトラックバックがグーグルのページ評価原理を揺るがしかねないということです。ただし、この問題についてのグーグルの対応はもう山を越えているという方もいます。

私が「グーグルのインデックスから削除されてしまった」と大騒ぎして(スイマセン、さぞうるさかったでしょう)いる最中も、グーグルのパートナーサイト(yahooやa9ドットコム)に提供されたインデックスには『たろパパ日記』はしっかり含まれていた訳で、これらのサイトでは間違いなく検索されていました。つまり、グーグルの検索でその時々により『たろパパ日記』がヒットしたりしなかったりしたのは、「taropapa.blogspot.com」が「taropapa.jp」の疑似あるいは偽装サイトと見なされ、検索結果表示から除かれた可能性があるということではないかとたろパパは疑っています。しかも、これがわずかなタイミングのずれ、同じ東京都内の場所の違いによって、表示される場合と表示されない場合が、並行あるいは前後して発生した理由と考えます。いかがでしょうか。説明が必ずしも正確でないかもしれませんが、その点はお許しください。

じゃあ、これからどうしようという点ですが、少し様子をみていようと思います。それで問題が解決しなければ、別のURLに新しいブログ『たろパパ日記』を設定して書き継ぐことにしようと思います。何と言ってもあちら様は古参でこちらは新参、その場合、こちらが退くしかないように思います。でも、たろパパも何という不注意でしょう。こういう愚かなユーザを”神様”は助けてくれないのでしょうか・・・。

【ご注意】一言申し添えておきますが、この文中に出てくるクルクル社およびその従業員の皆さまに関する記述はフィクションであり、いかなる実在の企業や人物とも一切関係ございません。とりわけ、このページのリンクの最後の方に出てくる会社ともまったく異なります。念のため。

【写真】入学式の日 今年ももうすぐたくさんのピカピカの一年生がやってくる(2005.4.6)

月曜日, 3月 06, 2006

グーグル様、ごめんなさい

コンサルタントとして生きていこうとすると、まず、身についてしまうのが「謝罪の技術」です。私も朝一番にクライアントに電話を差し上げる場合は、何が何でもまず大抵は「大変、申し訳ございません・・・」と切り出します。こうすると、仮に相手がこちらに不満をもっている場合(しかも悪いことに、こちらがそれに気が付いていない場合)でも何とか関係がつながりますし、反対に満足している場合には相手が「えっ? こいつ何か失敗したのかな」と戸惑っているスキをついてこちらの要求をあっさりと受け入れさせることができます。まったくコンサルタントというのは、油断も隙もない連中だということがお分かりかと思います。

で、私、今日は全世界を電子ネットワークであまねく照らしだしておられますグーグル様に朝一番でお詫び申し上げることを決意いたしましたが、それは、先日の「神様、いやグーグル様の汚れなき悪戯」以来のいくつかの投稿についてでございます。これらの文中においてグーグル様をからかうかのごとき表現を用いましたことを心からお詫び申し上げると共に、いささかの事実誤認(早とちり)がありましたことを申し添えるものであります。

昨日の書き込みで「どうぞもう少し『素朴なグーグルファン』でいさせて」とか、シオらしいことを書きましたが、本音でいえば「何がグーグルだ、クルクルパーだ!」とか思っていた訳でございます。ところが、帰宅後にグーグルのトップページで「たろパパ」と検索したところ、何と一番に出るではありませんか! さらに2月21日以前のこの日記の主要な文節もほとんど検索にかかり、結果に表示されています。どうもインデックスから削除されたのではなさそうです。あやーっ、なんとしたことか! こういうのを「たろパパもブログの誤り」と申します。それはともかく・・・

えー、私はもとよりグーグル様の熱心なファンでございまして、心の底では「これは何かの間違いだ、これはグーグル様がたろパパにお与えになった試練だ」と信じ、いささかも疑ったり罵ったりすることはございませんでした。投稿の表現は、あくまで話を少しでも面白くしたいという純真な思いから少々脱線しただけでございます。どうぞグーグル様、お怒りを解き、その広い御心で私の軽挙妄言をお許し頂きますよう平にお願い申し上げます。また今後もこれまで同様、いやさらに多くのお恵みを頂き、いずれかのサーバのほんの片隅で結構でございますので、末席を汚すことをお許し頂きますよう心よりお願い致すものであります。

【写真】水ぬるむ 太陽の光を求めて水面近くを泳ぐクロメダカ(2006.3.4 どんどこ池)

日曜日, 3月 05, 2006

歩く日記帳、って呼んでくれる?

ある方からメールで、最近のこの『たろパパ日記』は力が入り過ぎそろそろネタ切れでは? とご心配頂きました。ありがとうございます。いや、そうかもしれません。ネタ切れはともかく、仕事そっちのけでハマっていられるほど、たろパパの勤務先の経営状態は甘いもんじゃありませんのでございます。とは言え、仕事中毒で遊びも知らないおじさんの唯一の生きがいと言ったら大げさでしょうか。ここで書きたいこと書いて、何か有意義な時間を過ごしたような気になり、ビールをパアーッと飲んで寝るというのが一番健康にいいのです。まあ、チョット違うかもしれませんが、これでもし世の中が回っていき、そして太郎が世間並みに育ってくれれば、おじさんはもう何も言うことはありません。

今日は日曜日。今週はなすべき仕事はあまり進みませんでした。そろそろ気合いを入れて仕事に掛からねばなりません。一方、この『たろパパ日記』は快調ですが、神のごときグーグル様とはいろいろ感情的にしっくりこないところが出て参りましたので、正直に申しまして宗旨変えも考えております。いえいえ、神様にけっして文句を申したいということではありません。Gメールにブロガー、本当に素晴らしいサービスを利用させて頂いておりますことに心から感謝しております。どうぞもう少し「素朴なグーグルファン」でいさせて頂きたいと思います。

先のメールをもらった方にもお返事しましたが、私がこの二本の足で地上を這い回っている間はネタ切れはありません。そうだ! これからは、たろパパのことを「歩く日記帳」と呼んでもらうことにしようか? えっ、言い方が平凡? キレがない? そう言わず、どうぞ明日もよろしくお願いします!

【写真】柳橋保育園調理室特製の「そぼろご飯」 おいしそうですね!(2006.3.4)

土曜日, 3月 04, 2006

子供たちの力

先ほど(3月4日(土) 後10:10-11:00)NHK/BS1で放送していた『仲間たちが希望をくれた インド・子どもたちの労働組合』をみて泣いた。故ドラッカー先生も言ったとおり、インドは英語圏の情報技術大国として繁栄しつつある一方で、たくさんの子供たちが自ら働いて運命を開かなければならないという現実も抱えている。

「インドの都市部では、農村から出てきた多くの子どもたちが働いている。靴磨き、屑拾い、物売り、洗車、工場労働・・・そんな子どもたちがいま、互いに支え合うことで、就学の機会をつかみ、たくましく生き抜くチャンスを作り出そうとしている。デリーのハヌマン寺院周辺の露店で働くランジット君は14歳。10歳の時、家計を助けるために故郷を離れてデリーにやってきたが、思うように稼ぐことができず、やがて家族とも連絡がとれなくなってしまった。いまランジットは、児童組合のリーダーになり、仲間たちの相談役となっている。ランジットの目標は、仲間たちとチャイの露店を出すことだ」(番組ホームページより)

番組のはじめあたりでは「こういう厳しい中で健気に生きている子供たちの姿を(超甘ったれの)太郎にもわからせたい」てなことを思いながらみていましたが、最後のほうでチャイの露店のリーダーとして仲間への責任感から、せっかく再開した両親と別れて暮らすことをランジット君が決意したというあたりでは、ただもう涙、涙でした。たろパパが物心ついた頃(1950年代の後半)よりさらに何年か前の敗戦直後には、きっと日本でも同様の境遇にあってたくましく生き抜いた子供たちがいたんだろう、親が「子育て」みたいなことを言う場合も子供たちがもつこの成長の力を信じないのであれば逆に成長の障害になるに違いない、とか、いろいろ反省を呼び覚まされたことでした。

太郎たちの未来について

今日は柳橋保育園に新年度から入園する子供たちのパパやママを対象とした説明会があり、会の最後にとむさんと私がどんどこ会を代表して15分ほど園の自然観察活動のことなどをお話ししました。何人か在園児のお母さん(弟や妹が入園する)もいましたが、大半はゼロ歳児の保護者の方々で、その皆さんのお顔をみていて「太郎が生まれた頃は僕もこんなんだったなあ」という感慨にとらわれました。

説明の後、なんと園では賄いを用意してくださっていて、僕たちの前に食育についてお話しされた熊本の上妻妙さんたちや園の先生たちと一緒においしいそぼろご飯を頂きました。上妻さんは熊本県で食育指導士をされており、今、日本社会が大きく変わっていく中でバランスのとれた「食事」の習慣が崩れ大変な状況になっているということに警鐘をならしておられます。昨年成立した食育基本法のこと、食品添加物(安部司著『食品の裏側』)のこと、保育園や学校などでの子供たちの「食」の実態、食事と成長の関係など、ほんとうにいろいろ勉強になることばかりでした。どうもありがとうございました。

太郎はあまり食欲旺盛というほうではないので、私などもついつい「これ食べ、あれ食べ」と強く勧めてしまいがちですが、どうもこれがよくないようです。上妻先生のお話では、家族がそろって食事をすることが親子のコミュニケーションの原点であること、これが欠けると子供の心の成長が妨げられることにもつながることを強調されていました。

でも、いったい太郎たちの世代が親となる時代はどのようになるのか、心配なことではあります。出生率の数字を使うことはたろパパの仕事でもありますが、現在のような出生率が続けば日本は数十年から100年くらいの間に滅ぶと心配する方もおり、NIRA(総合研究開発機構)のような政府機関まで人口減少が日本の国力の衰退(小林陽太郎/小峰隆夫編著『人口減少と総合国力』)につながると危機感を募らせています。

この点、たろパパは、コンサルタントという仕事柄もあり「未来のことはわからない、何事も断定的に言うのは危険」と慎重にみることにしています。確かに地球シミュレータが予測するように温暖化で地球の気象が暴走すれば100年後には人類の存続が問われる事態にもなるだろうし、合計特殊出生率が1.2xでは日本の急激な人口減少は避けられないだろうと思います。また、上妻先生が言われるように食事の乱れは心の乱れであり、荒れた心の子供たちが増えれば未来は暗いだろうと思います。とは言え、これらの予測や警鐘を基に「だからこうしよう」という解決行動につながれば、実に幸いにも予測は外れて人口は増え心やさしいたくさんの子供たちが次代を担う、異常気象もギリギリのところで危機を回避、といったことにもなるかも知れません。ほんとうにそうなるといいですね。そういう未来を子供たちに贈るためにどうしたらよいか、ひとつひとつあわてず課題に取り組んでいきたいと思います。

【写真】ハクモクレンの冬芽(2006年2月初め、どんどこ池にて)