日曜日, 4月 30, 2006

たろパパの連休日記(4月30日)

太郎くんの家では昨日まで連休の計画がまったく立っていなかったので、近場で遊べるところをたくさん考えてみました。今日は西武・是政線に乗って、多摩川で初めての本格的魚釣りに挑戦してみました。ところが川辺に他の釣り人の姿が見えません。お昼頃から1時間ほど試してみましたが、まったく駄目。仕方なく、対岸の南武線鉄橋の方に移動してみました。
【写真】多摩川の河川敷で(2006.4.30)

こちらにはヘラブナ釣りのおじさんたちが何人もいましたが、聞いてみると誰も釣果はあがっていないようです。今日は魚たちもゴールデンウィークを楽しむため、どこかに出かけているのかもしれません。

なお、5月3日にはご近所で奥多摩の方に釣り・バーベキューみたいなことで行こうという計画もあります。そのほか、近場で遊べそうな案については、つぎのようなメニューを考えています。どなたかご一緒できるようでしたら、どうぞご連絡ください。

・葛西臨海公園の水族館を中心に浜辺で遊ぶ(電車コース、車も可)
http://www.senyo.co.jp/kasai/
・富津方面で潮干狩り(車コース)
http://www.protos.co.jp/gyokumi/index.html        
・奥多摩で「釣り」など(車コース)
http://www.tachikawaonline.jp/local/outdoor/okutama2.htm
・名栗渓谷(湖、温泉)あたりで遊ぶ(車コース)
※名栗渓谷まで入らず、飯能駅の近くにもバーベキューができる場所はあるらしい
・羽根木プレイパークで遊ぶ(復活したせせらぎもあるらしい)(電車コース)
http://www.playpark.jp/pp_hanegi.shtml
・東伏見の武蔵関公園でフナ釣り(自転車コース、近場で簡単といえば簡単ですが)

【写真】今日、東京は初夏の陽気となり、太郎くんは川の中まで踏み入って魚を探しましたが、巨大ゴイが昼寝していた他にはまったく魚影がみえず、ボウズに終わりました。さて、太郎くん、ジャガリコ食べながら水面をみつめて何を思っているのでしょうか。(2006.4.30)

木曜日, 4月 27, 2006

「中年の蹉跌」 ・・・河合隼雄 『対話する人間』から

今日は再び河合先生のご本から「働きざかりの落とし穴 中年の発達心理学」を読んでいきたいと思います。これまでの本の前半では、子どもたちの成長を軸に家族との関係ということで大人の問題に触れられていたのですが、このあたりから大人=中年そのものについて、夫婦の問題を絡めて論じられていくようです。以下、原文の項目立てにしたがってメモします。なお、タイトルの「蹉跌」という言葉はたろパパが考えたもので、この本の中ではそういう言い方はされていません。
  • 中年の意味
まず、中年の危険(落とし穴)について、この時期の自殺や抑うつ症の増加の問題を、仕事における「達成」との関係、夫婦関係の変化などの関係で具体的に示しています。そして、孔子やヒンドゥーでの年齢のとらえ方やユング、フロイトの論を紹介しながら、中年の時期のこの「病」は、本人の取り組み方によっては創造につながる入口になるもの、と強調しています。
  • 男の中年・女の中年
ここでは子育てを終わった中年夫婦を主人公とするTVドラマを材料に、夫婦という関係の破綻と再構成(離婚と再婚)という状況のなかでの「死と再生」の必要性が語られています。離婚、再婚といった関係性とは別の次元で、自分自身との格闘、掘り下げがなければ、本当の意味で創造的な次の展開にはつながらないとしています。
  • 転換期にたつ中年
この部分でも、課長に昇進したことや新しく家を建てたことがきっかけで抑うつ症になってしまった話、あるいは高校生の子どもの不登校をきっかけとして家族が会話を取り戻し「再生」へ歩んだ話などを通じて、危機=落とし穴が前に進む転機となる可能性を示しています。夏目漱石の「うつ」、ユングやフロイト自身の精神的「病」がそれぞれどのような創造につながったのかということにも触れられています。
  • 老いの準備
ここでは「すること」と「あること」のバランスといった視点で、現代の社会が「すること」に偏りすぎていて「あること」の大切さを見失っているという指摘が出てきます。大きくは死にむかっての準備、老いにむかっての準備の時期としての中年の位置づけがあり、この時期における思考の営みを「宗教性」と呼びたい、としています。

【写真】野川公園(2006.4.22)

水曜日, 4月 26, 2006

たろパパのブログ・オン・ブログ No.009

お早うございます!
今日の東京は雲が多いながら陽も差す穏やかな天気で、オフィスの中は汗ばむほどです。昨日、100キンに行って、ここで日中履いているスリッパを2足買ってきました。同僚に「古いスリッパをどうしよう?」と聞くと、「古いスリッパは捨てる」とニヤリ・・・、そうなんだよなあ、といいつつ、どうしたもんかと思案したたろパパでした。

【写真】太郎の卒園記念にもらったドングリ実生の苗(2006.4.16)
平川克美さん 世界思想に触れるということ。 2006.4.20
先に奥村宏氏の株式会社論(「 師は来たりて、去っていった。」)を私たちに紹介して頂いたヒラカワ先輩、ついにアダム・スミス『国富論』に挑戦されるとのこと。その成果に期待したいと思います。
yukikofjswさん Gala 2006.4.23
経済学のプログラム、UNDP新総裁のKemal Dervisや米国連大使ボルトンの講演のお話し、SIPA卒業パーティーと、充実かつ楽しそうな最終学年を過ごしているようですね。たろパパは、この最後に出てきた「フォーチュン・クッキー」なるものに、大変興味を抱きました。中国料理に出されることが多いようですが、考え出したのは日本人らしい。これをブログのアクセサリにすれば面白いかも、というのが私のアイデアです。
柳田充弘先生 福知山線の事故の一周忌 2006.4.25
柳田教授が、JR西日本の組織体質についてきびしく批判しておられます。あれだけの事故を起こしても、なお組織の根本的な変革は達成されていないということでしょうか。
「わたくし、なんでこんなにいつもきついことを言うかといいますと、何年も前ですが、京都駅プラットフォームの駅務室や車掌さんなどに運転の荒さや、アナウンスのない遅延とかで文句をいいに行ったことがあるのですが、その時の対応者の、まったく真面目に相手にしない態度を見て、これは上から下まで職場の雰囲気は相当悪いに違いない、と思った経験があるのです。それともちろん信楽線事故の時の対応です。あまり良い方向で学習できない組織に見えます。」

さて、私は、内田先生たちがお書きになった『9条どうでしょう』の感想文もまだなのに、早くも佐々木俊尚さんの『グーグル/既存のビジネスを破壊する』を読む必要に迫られています。

火曜日, 4月 25, 2006

たろパパのブログ・オン・ブログ No.008

この「ブログ・オン・ブログ」も、さらに守備範囲が広くなってきました。さて、みんなまとめて面倒みよう・・・って、チガウ?

【写真】去年のシジュウカラの親と子。巣立ちの後もしばらくの期間、子鳥は親鳥と一緒に行動しているようで、もうちゃんと飛べるのに餌をもらっている(2005.6.13)

のびたけおさん タンドリーチキンサンド 2006.4.21
<おいしい情報> その1:浜松町駅のバスターミナルへ向かう階段の横にある 「temps」 というカフェのタンドリーチキンサンドは最高。その2:日本橋三越でイタリアフェアが28日まで開催中・・・トリノのチョコレート「ジャンドゥーヤ」は、ヘーゼルナッツを原料とした、香り高い、とろけるような舌触りを持つチョコレート・・・だそうです。たろパパは食べるの大好きですが、どちらかというと「味より量」派で、お陰で立派なお腹になりました。
kshojimaさん 理科教育に博士を充てるのは? 2006.4.22
柳田教授のポスドク問題についての提案をめぐる批判的意見です。「自分の経験からして博士号取得者が社会的にさほど弱者だとは思えない・・・(中略)・・・義務教育ではないですし、ある程度の年齢で選んだ道で好きなことをやってきたのですから、後はそこから自分で切り開くしかないのです」・・・うん、たろパパも、柳田教授の構想については、この方の高校の教育現場の実状を踏まえたご意見あたりが適切かと思います。
柳田充弘先生 誤算の感覚 2006.4.21
柳田先生のような方でも、若い時代にはこんな思いをされたというのは意外といえば意外です。
「わたくしの個人的体験ですが、大学院で博士課程に残ったときに、しばらく経って、人生で相当大きな誤算をしたのではないかと、かなり参ったものでした。学問に向かないと思う以前に、学問をやってる人達とあまり合わないとおもったことと、こんな世界に入り込んでもうどこにもでられなくなるのではないかという不安でした。・・・(中略)・・・結局、この感覚は大学院を休学してスイスの大学で研究を始めるまで続いたようにおもいます。
わたくしの勘違いだったかもしれませんが、スイスの研究所で会った人達は国籍も人種も違うのに、なぜか、わたくしが考えていたとおりの研究者で、わたくしが東大で、自らをエキセントリックに感じたものが、すべて当たり前のこととしてありふれたものとして存在してました。それでやっと誤算感覚が解消され、解放されたようです」
つまるところ、日本の大学というのは、知的好奇心にあふれ、創造性のある者には居心地のよくない場であるということなのではないでしょうか。・・・なーんだ!(あるいは、やっぱり!)、といったお話しではあります。
近藤淳也さん はてなに入った技術者の皆さんへ 2006.4.22
近藤淳也はタダ者ではない、って、今、初めて気づきました(遅かった?)。いや、うーん、すごいと思います。技術開発と経営、モノと人の関係をこれだけわかりやすく説くことのできる方はいないし、しかも「はてな」という実践の場で語っていることが「迫力」を生んでいます。こうした議論、こうした行き方を、柳田先生ならどのようにご覧になるのか、お聞きしたいところではあります。
・・・どんな世界も自分が何かを始める前は自分が居ない状態で回っています。しかも、そこそこちゃんと回っているのです。何か新しい事を始める時、「その世界はあなた無しでもちゃんと回っている」状態から出発する事を忘れないでください。極端な話、「自分が生まれなくても地球は問題なく回っていた」のです。新しい領域に挑戦すると言う事は、自分が不必要な状態から、自分が必要とされる状態への変化を、自分の力で起こすという事なのです・・・
梅田望夫さん 「グーグルをどう語るか」を巡って 2006.4.22
梅田さんの方は、グーグルの今後の方向を巡って、これもまた外すことのできない議論を繰り広げています。
・・・そして、そういうグーグル・サテライト企業がたくさん出てくると、グーグルに対して色々なものを「もっとオープンにしろ」という圧力が生態系からかかるようになるだろう。グーグルの「例外処理」周辺の問題点の解決、そしてシステム全体の閉鎖性の改善は、こういう手順で行われていくのではないかと思うのだ。・・・
うん、この論自体はその通りだと思うのですが、梅田さんには、グーグル台風が今後さらに世界をどのように変えていくのか、「2006年4月の進化論」、大枠での議論を期待したいところです。

この他にも内田樹先生、平川克美さんをはじめチェックすべきブログがいっぱいあるのですが、とりあえずここまで。・・・近藤さんのような才能が出てくるのがリアルタイムでわかるところがブログ時代の醍醐味ですね。これだから「ブログ・オン・ブログ」は止められません。
【写真】この日もカラスが寄ってきた(2005.6.13)

月曜日, 4月 24, 2006

母鳥は強し!

抱卵中のシジュウカラを確認しようとして、巣箱の穴に顔を近づけてみました。暗くてよく見えないのですが、顔が巣箱から20センチほどまで近づけると、突然、親鳥が小鳥とも思えないような声で「フーッツ!」と威嚇してきます。体長20センチほどの小さな身体で胸一杯空気を吸い込み、怒りで毛を逆立てながら人間を追い払おうとしている訳ですね。・・・こんなことが昨日、一昨日と続けて2回ありました。まったく「母(鳥)は強し!」を実感させられます。
【写真】カラスノエンドウ(2006.4.22 野川公園で)

もちろん、この抱卵しているのが母鳥なのか父鳥なのか、確認している訳ではありませんが、一羽が抱卵を続け、もう一羽が電線で高鳴きしているとすると、人間の感覚として、抱卵しているのが母鳥、電線で高鳴きしているのが、「縄張り」を守っている父鳥という気もします。・・・でも、そうだとすると、抱卵中の母鳥はどうやって自身の餌をとってくるのでしょう。南極の帝王ペンギンは父鳥が抱卵するようですし、人間(しかも現代日本)の「感覚」で判断してはいけないのでしょう、きっと。

どちらにせよ、子を守る親鳥のパワーというのは凄くて、それは、去年5月の巣立ちの時にも驚かされたことがありました。その日、朝から親鳥たちは巣箱に餌を運び込むことを止め、巣箱の周りで口に餌をくわえながら、「早く出ておいで・・・」とでもいうように、盛んに鳴きながら子鳥たちの巣立ちを誘っていました。たろパパにもいよいよ巣立ちだということがわかり、巣箱の側板を開けて何枚か写真を撮ったのです。そして、その一瞬、それまでおびえて巣の奥に集まっていた子鳥のうちの数羽が巣箱を飛び出したのです。

最初からちゃんと飛べる子鳥というのはいなくて、地上を歩きまわるものようやく家の屋根までたどりついたもの、壁に必死につかまろうとするものもいます。と、その時、向こうのアパートの上から見ていたカラスが地上ではいずり回っていた子鳥の一羽を襲い、口にくわえて飛び去ろうとするではありませんか。・・・この時の親鳥の怒りが凄かった! 10倍くらい大きいカラスが飛ぶ後ろから、「コラー、マテー」とばかりに追撃していったのです。明らかにカラスの方が分が悪く、アパートの向こうの公園の方に逃げていってしまいました。

ここ数日、変わりやすい天気の東京ですが、太郎くんの家では、こうして今年もシジュウカラの誕生のドラマが始まりました。・・・同じ「劇場型」でも、こういうお話しの方が罪がなくていいのではと思います。


【写真】 野川でとったトンボのヤゴとエビ。ただし、エビは水質の変化に弱いためか、水槽に移したその日のうちにつぎつぎに死んでしまい、カワニナやオタマジャクシの格好の餌になってしまいました(2006.4.22)

日曜日, 4月 23, 2006

わからん奴はほっておけ!

・・・って、日頃、温厚で通っている(?)たろパパが怒っている訳ではありません。ただ、例の「ウェブ2.0」について議論していると、相手がどんなに優れた知性や経験の持ち主であっても、仕事の、あるいは日常生活のスタンスが根本的なところで微妙に「違う」ために、どうしても核心的なレベルで理解してもらえないということがあり、これにやや苛立っていることは事実です。つまるところ、人が何事かを理解する場合の中身は、百人百様の対象へのアプローチの仕方に左右される訳で、ウェブ2.0といった「これから」の時代の話について共通の理解がすぐ生まれると考える方がおかしいのでしょう。なお、この「理解」を左右する「スタンス」について言えば、『ウェブ進化論』で、梅田さんはご自身のスタンスを含めて「オープン性」「楽天主義」「行動主義」といったことを書いていたと思いますが、私もこの新時代にはこうしたスタンスと資質が必要だと考えます。

ところで、昨日の梅田さんのブログ・・・「グーグルをどう語るか」を巡って・・・では、佐々木俊尚さんという方の『グーグル/既存のビジネスを破壊する』が詳しく取りあげられています。そう、説明しても「わからない方」がたくさんいる一方で、放っておいてもどんどん吸収して自らのビジネスに活かしていく方もいるという訳です。たろパパも、人に説明するのはもう適当にしておいて、自分で具体的に始める方がよいということかもしれません。


【写真】昨日の野川公園(東京)でのメダカとり偵察のようす。岸辺の木々は青々として新緑の季節が近いことを知らせていました。ここでもシジュウカラがあちこちで高鳴きしていました。ただし、水量は少なく、メダカの姿は見あたりませんでした。連休中のメダカとり企画については、もう少し考えさせてください。(2006.4.22 野川公園で)

土曜日, 4月 22, 2006

野川公園のメダカ取り偵察行の結果

皆さん(どなたでも!)、これから出発して午後3時頃から野川公園(東京)でメダカとりしませんか。5月の連休終わり頃に企画しようとしている「どんどこ会」のメダカとりの下見です。場所はつぎの地図の「わき水広場」(東八道路の北側地区)あたりです。
http://www.tokyo-park.or.jp/park/format/map049.html

・・・と、書き込んでから、実際に太郎と一緒に行ってきました。結論としては、まだメダカの姿は見あたらず、小さなエビとオタマジャクシを数匹ずつ、シオカラトンボらしきヤゴを1匹、ようやく捕まえました。以下、野川公園内の自然観察センターより下流の野川の状態です。
・水は温かく、寒いという感じはぜんぜんありませんでした
・ただし、水量は非常に少なく、川底の藻などが繁殖しすぎで水が汚くみえます
・両岸の草がきれいに刈り取られており、メダカの棲家によい感じのところは(まだ)少ないようです
・・・ということで、連休末まで2週間くらいですが、メダカが急速に繁殖・成長し、両岸の草がどんどん伸びるとしても、少し期間が短いかな、という気はしました。去年の黒目川でのメダカ取りはちょうど今頃だったと思います。今年の黒目川の状態はどうか、どなたかご存知でしょうか。

【写真】今年の太郎くんの家の巣箱のようす(2006.4.2撮影)。今日の午前中も巣箱の中に親鳥の気配がしましたので、抱卵を始めたことはほぼ間違いありません。つがいの一方は、高い電線のあたりでピチュピチュピチュ・・・と高鳴きを続けています。

金曜日, 4月 21, 2006

シジュウカラの抱卵が始まった?

昨日、東京は昼頃の嵐のような吹き降りの天気が、午後には一転して日が差す陽気となりました。そして、今朝、たろパパがいつものように出掛けに、ひょいと玄関先の巣箱を覗くと、なんとシジュウカラの親鳥の尾羽が入口の巣穴の方に向かって立っているではありませんか! むこうも気配を察して、ジッと動きません。・・・まあ、巣づくりの仕上げをしているのかもしれませんが、すでに抱卵の態勢に入った可能性もあります。去年の写真を探すと、連休明けの5月7日には、まだ目が開いていないながら、ヒナたちが孵化していたことがわかります。

でも、シジュウカラの抱卵はどのような「態勢」でするのだろう? オスとメスが交替でやるのか、メスだけか、・・・実は今年はウェブ・カメラを設置して「放映」してみようということも考えたのですが、これで機会を逃してしまいました。

太郎くん、どうぞ巣箱の周りでは、今までよりももっと静かにするようにお願いします。たくさんヒナが孵りますように!


【写真】これは去年のシジュウカラのヒナ(10羽近くいる)
この時はまだ目が開いていなかった(2005.5.7)

木曜日, 4月 20, 2006

たろパパのブログ・オン・ブログ No.007

東京は、この時間、ひどい嵐になってきました。さて、・・・
柳田教授は、ポスドク問題について、改めて「博士達の全国ユニオンが作れたらいいのにな、と思うのです。もちろん目的は、博士達の職業的安定性を目指すと同時に、博士達が国民と国への貢献をいかになすべきかも、掲げるべきでしょう」と書いておられます。また、この問題については、「文科省の政策研の下村氏」がきちんと論じていることにも触れられています。

・・・外野のたろパパが言うのも何ですが、ユニオンをつくることは必要だろうし、意義も大きいとは思うのですが、何か問題のとらえ方に逆転があるような気もします。こういう超高学歴の皆さんの就職口がないというのなら、彼らの起業支援の仕組みを整えるとか、もっと大量に海外修行に出す仕組みを考えるとか、何か知恵の出し方があるはずです。それに、このユニオン、知識がありすぎる方たちを集めようというのですから、まとめるのはもう大変、設立した途端に内部で甲論乙駁が始まるといったことにはならないでしょうか。

【写真】ついに上の乳歯が抜けた。まったく誰に似たか、憎まれ口ばかりたたく子になってしまって。歯が抜けてちょっとトボけた表情のほうがバランスがとれていい(2006.4.15)

柳田先生の記事には inoue0 さんのトラックバックがみえます。この方の論は、たろパパよりさらに徹底していて、内田樹先生顔負けの身も蓋もない論を展開されています。「Ph.Dの需要が増えるよう、大学院教育を改善する必要はあるけれど、まず、大学院教員の再訓練や意識改革から始めなくてはならないから、そう簡単にはいかない。日暮れて道遠し。」「Ph.Dの社会需要が少なくて、今後、Ph.Dが(すでに?)就職において非常な困難に直面するという事態は、就職口を人為的に広げるのではなくて、供給を絞れば簡単に解決できる。」・・・なんてね。さて、この議論はどうなるんでしょう。楽しみ、といったらポスドクの皆さんに怒られそうですが。

ひとりひとりが、役割演技をして、お互いに
交通することをしなくなるということを称して、多様化の時代と
言うなら、それは
人間の多様さというものを断念した時代という他はない。
シンプルイズビューティフル。
馬鹿の楽園ということだ。
・・・うん、うん。平川さんの言うこと、わかる! この方の視点は、なんというか、素朴な常識に立ち戻ってものごとを考えようという感覚がありますね。

今や「時の人」といっていいかも。快調にトレンドの波に乗っているようです。

Facebookですか。SNSについては、日本でも現状よりはるかに大きな可能性があると思います。資金調達したということより、Facebook の機能を調べてみたいですね。

水曜日, 4月 19, 2006

たろパパのブログ・オン・ブログ No.006

「川のながれ、天気の変化、抜けるもん毛」・・・ん? もん毛、って何だろうと思いました。ちょっと調べてみると、「背中からお尻にかけて生えているもわもわっとカールした毛」と、あります。うーん、そんな毛が生える人もいるのか、と感心していたら、どうもこれは犬のお話しのようです。・・・近藤さんの『しなもん日記』というのがありました。かわいいですね。犬を飼う時間と環境の余裕がほしいと思うたろパパでした。

丸山応挙って有名ですよね、という程度の知識しかありませんが、内田先生が行かれた大乗寺のホームページはスゴいです。どうぞこの機会にご鑑賞を!
高野山真言宗 亀居山 大乗寺」のホームページから「丸山派デジタルミュージアム」をご覧ください。

【写真】ポンポコ池はクレソンなどが大繁茂状態、そろそろ手入れ(浚渫?)してメダカを入れる準備をしたいところです(2006.4.16)

大学の研究室などではポスドクが「余って」しまうという問題が起こっているらしい。東北大学の大隅典子先生もトラックバックにみえているけれども、どうもこの問題は先生たちが書かれているような制度改革だけでは解決しないことのように思われます。お二人が書いておられることを読みますと、背景にある日本の学術研究の体質の古さという問題が見え隠れしているようです。
はてなの近藤氏がこの「カンブリア宮殿」というTV番組に出演し、村上龍さんたちにインタビューを受けるようです。まだ日程が出ていないようですが、面白そうですね。
「特選/機動戦士3Dガンダム」ですか! もうこのように映像を自由にアップする時代になってしまったのですね。

【ひとこと】 だんだん皆さんの書くスピードに、読むのすら追いつかなくなりつつあります。それだけ楽しい記事や面白い情報がいっぱいになってきたということではありますが・・・。

火曜日, 4月 18, 2006

メモ・・・河合隼雄 『対話する人間』から

今日は、河合先生のご本から、注目したい言葉、フレーズをメモします。
  • 子どもの魂の叫び
「子供たちは、大人たちの魂のゆらぎが欲しいのだ」
「親が真剣な自分の姿を露呈したときに、子供は愛を感じた」
・・・物質的に豊かになった時代の親の子に対する「姿勢」の示し方
  • 病の意味
「息子の不登校という起爆力によって、(夫婦の対話が)はじめて可能になる」
「ともかく、ここで夫婦が正面から向きあって対決すること、・・・が行われることによって、事態は急激に変化することが多い」
・・・「家族」の意味、ということですね

  • 父親の課題
「父親が子どもの要求を安易に受けいれてしまう場合、(中略)子どもは父親が一個の人間としてちゃんとした意見をもっているのかどうか疑わしくなり、それを試そうとして、またまた理不尽な要求をします」
「父親がギリギリの本音を出して立ち向かうと、子どもたちもよくなることが多い」
【photo】 What are you doing on the table? (2006.4.16)
  • 父親は多様化を迫られている
「日本の社会を欧米のそれと比較すると、欧米の在り方が父性的な原理に基づいているのに対して、わが国は母性社会というべき様相を示すこと」
  • 家族の対話
「個人の相談のように見えても、その問題の解決のためには、その人を取りまく家族関係が変化することを必要とする場合が増加してきた」
「大切なことは(家族に)問題があるかないかではなく、どのようにそれに立ち向かっているか、ということであろう」
「そのような単純に割り切れぬ感情をぶっつけ合って生きてゆけるのが家族の特徴ではなかろうか」
  • 父と息子の対話
臨床心理の専門家が読む、大江健三郎『キルプの軍団』
「人間は青年期に一時、言葉を失うときがある」
  • 融合と分解
「心理療法を行うときに、治療者と来談者との間に一種の 融合 が生じてきて、来談している人の悩みや苦しみが治療者の方に入り込んでくる」
「日本人の人間関係においては 融合 がよく生じているように思われる」

月曜日, 4月 17, 2006

たろパパのブログ・オン・ブログ No.005

life at SIPA はコロンビア大学公共政策大学院(New York)で学ぶ日本人の若い方が書いておられるブログで、読んでみるとこの学校のプログラムがどうも半端じゃないというのがわかります。私のつたない英語力では正確なところはわからないのですが、どうも世界の約100か国から1200人もの学生、しかもある程度の学業のバックグラウンドのある人たちばかり集まっているらしい。しばらく更新がないなあとか思っていたら、案の定、「グアンタナモ模擬裁判」と「スーダン・プレゼン」という相当厳しいセッションがあって「突破」した模様・・・おめでとうございます。こういう方たちが活躍して次の時代をつくっていってほしいなあ、と心から期待致します。
【写真】近くの公園で(2006.4.15)

教授が興味深いことを書いておられます。どうも先生は学生たちの「物語る能力」の低下に悩んでおられるようです。子どもを研究者にでも育てたければ、「お話し」をたくさん聞かせてあげてください、とのことです。「特に子供が目を輝かせたり、何度も聞きたがるお話は何度でも聞かせてあげることです。(中略)かちかち山でも桃太郎でも一寸法師でも、寿限無寿限無でもなんでもいいのです。物語が頭にしっかり入ったら、その物語のどこかの部分について、お子さんに聞いてください。物語の筋が頭に入る訓練が出来て、なおかつそれを人前でいえて、さらにその筋について子供自身の意見をさしはさめるようだったら、もう将来研究者になるための第一関門を突破したといえるでしょう」・・・ふーん、物語りする力というのはそれほど大切なんですね。

うーん、そうかあ、平川さんという方の日常の背景にある心象がよくわかりました。えーっと、誰だっけ、そう滝田ゆうさんだったでしょうか。滝田ゆうさんの漫画に出てくる世界がみえました。

【写真】越冬サナギから孵ったナミアゲハについて、どこかに飛んでいったように書きましたが、実はまだ家の中にいることがわかりました。羽根の一部が欠けていることもありますが、羽化直後に飛び立てなかったことや、越冬の条件があまりよくなかったことが原因かなあと思います。(2006.4.16)

昨日ご紹介した内田樹先生の記事・・・いま女性が男性を評価するときの社会的能力としていちばん高いポイントを与えるのは「料理ができる」と「育児が好き」である・・・という「料理ができる」高ポイント・パパの代表みたいなのびたけおさん、です。おいしい料理ブログを毎日せっせと更新しておられます。ご苦労さま、そして、ありがとう!

日曜日, 4月 16, 2006

たろパパのブログ・オン・ブログ No.004

  • 平らな国デンマーク/子育ての現場から(第41回) 2006年4月11日
高田ケラー有子さんのこの連載はブログではないけれども、今回は「さまざまな異文化理解」というテーマで、デンマークでの風刺画問題のその後のようす、テレビ番組での日本のイメージ、アニメを核とした日本ブームなどを紹介しています。なお、このメルマガを読む場合は、村上龍さんのJMMサイトから申し込みます。

【写真】 メダカたちも無事、冬を越し、動きが活発になってきました(2006.4.16)

国内でWeb2.0時代の最先端を行くと目されている「はてな」社内で、複数のモニターを並べながら仕事をするスタイルが流行っているらしい【写真】。「時代はデュアルモニター・・・って、一般的なのかな?」と近藤さんは書いていますが、うーん、どうなんだろう? 金融関係の方が10台以上のモニターをずらーっと表示しているという話は聞いたことがあります。創造性があって表現がからむ仕事では1台では足りないということが確かにありそうです。

いま女性が男性を評価するときの社会的能力としていちばん高いポイントを与えるのは「料理ができる」と「育児が好き」である・・・先生、この時、かなりワインが効いて「酔いに任せて」という雰囲気もありますが、このようにいいことを書いておられます。というか、内田先生のスタイルがブログに合っているんでしょうね。「堅い」ご本を書いている時より、文章が活き活きしているように感じました!

「はてな」社長の近藤さんが、「自分で使う電力を同じ分だけ自然エネルギーで発電してもらって、その証明書を発行してもらえるグリーン電力証明書」について紹介しています。リンク先の契約団体リストをみると、ソニーやアサヒビールをはじめ上場企業がズラリという感じですが、果たしてどのような意味があるのか、どの程度の効果が見込めるのか、少し研究してみなくては、という気になりました。

たろパパはこのダニエル・ションストンの曲を聴いた覚えはありませんが、きっと知る人ぞ知る才能なのでしょう。この日のブログでは、この「躁鬱の天才」の軌跡をざっとおっていますが、人の精神と才能のあり方について、ひとつの例証を与えてくれるものと考えます。

先週、長く大手シンクタンクをリードする立場で活躍されてきた方とお話しする機会がありましたが、新しい時代のネット社会について大変興味をもっているものの、まだ自らこのフロンティアに乗り出そうとはしていないご様子でした。梅田さんの『ウェブ進化論』で進路は大まかに示された訳です。これからは急がず慌てず、目標に向かって努力すべき時期が来たということでしょう。

「しかし良いこと尽くめではないぞと、私は強い危機感を抱いた。これほどまでに貴重な情報が無料で溢れかえるのだ。根底から仕事の仕方を変えなければ、この世界の最先端を走り続けることはできないと気づいたのである。(中略)以来、リアル世界での移動を私はあまりしなくなった。仕事で日本に行き休暇で欧州に行く以外、飛行機には全く乗らなくなった。アメリカ国内線には二〇〇二年秋から一度も乗っていない。車の走行距離も半分以下になった」(梅田望夫)

・・・これと相通じることを、ご自身は電子メールすらやらなかった故P・F・ドラッカー先生が、『飛行機の中で過ごす人生はムダ』というタイトルで述べています。「新しい時代の製造業は労働集約型ではなく、頭脳集約型のものになる」「アウトソーシングには不向きで、プロジェクトに従事する人間が顔と顔を突き合わせて、直接やりとりすることで進捗が見込めるタイプの仕事になります」(ドラッカーの遺言 2006年1月 講談社)

先生のご研究にからんで沖縄に行く機会が多いらしく、現地と本土との「温度差」に触れながら、米軍基地の再編に反対する沖縄の世論を紹介しています。柳田先生ほどの方が、「分野違い」といった的はずれな批判を気にされる様子もなく、市民として言うべきことは言うという姿勢がさわやかに伝わってきました。

土曜日, 4月 15, 2006

ナミアゲハの越冬サナギが羽化

昨日(4月14日)夕方、リビングの隅に置いてあった昆虫箱でナミアゲハの越冬サナギが羽化しているのを、太郎くんがみつけました。ふたを開けると、部屋の中を飛んだようです。ただし、充分に羽根が伸びる前に傷ついたのか、羽根の一部が欠けています。

この越冬サナギは、昨年の秋、幼虫からサナギになったうちの1匹ですが、越冬サナギだけあって、外の殻は固く、ひょっとするともう死んでいるのでは、と心配になっていたものです。なお、越冬サナギはあと2匹いますが、形が小さく、ちゃんと羽化するかどうかわかりません。

左の写真は、ハチミツを少し水で溶いて与えているところ(今日の午前9時頃)。この時間にはまだ寒く、外で飛ばそうとしても飛びません。たろパパの指が温かいためか、止まるとなかなか離れない状態でした。

この後、お昼頃、太郎くんたちがみている時に、このアゲハは外に飛んでいったようです。まだちょっと寒いですが、なんとか生きのびて繁殖してもらいたいものです。

ところで、先日の「モツゴくんたちをザリガニに食べさせる実験」の後日談ですが、2匹のうち、身体が大きくザリガニに襲われた1匹は、仲間たちの水槽に戻った翌日の夜、水底で死んでいました。あきらかにザリガニに挟まれたのが死んだ原因と思われます。やはり、ザリガニはこうした小魚のスキを突いて、襲って食べることがあるようです。

金曜日, 4月 14, 2006

たろパパのブログ・オン・ブログ No.003

おとといの記事の「明恵上人」のリンク先とした「千人万首」は、鎌倉にお住まいの水垣久さんという方がつくっている素晴らしいサイトです。「世の中に絶えて桜の・・・」の在原業平、「秋きぬと目にはさやかに・・・」の藤原敏行など、本当に千人に近い歌人の紹介と代表作を丁寧にまとめる作業を続けておられます。

【写真】 昨年の春、巣立ったばかりのシジュウカラの子鳥(2005.5.19)

秋きぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる

もう30年も前に逝った私の祖父は、宮城県北部栗原郡築館町(現在の栗原市)の出身で、永く県警の巡査などを勤めた、とくに学識がある訳でもない庶民と言ってよい人でしたが、このような歌を折りにふれては孫の私に教えたものでした。伊勢物語にしろ、あるいはこうした古今集あたりの有名な歌にしろ、明治期までの市井の人々にとってきっと一般常識だったに違いありません。それも書き物によってではなく、基本的に口承によって人々の間に伝わってきたというあたりに、近世までの私たちの文化のありようを感じとることができます。

Google、中国の Web 検閲への協力を「正しい」と主張

・・・だそうです。急に話題が変わって申し訳ありません。ニュースによると、グーグルCEOのエリック・シュミット氏は、「インターネット利用を制限している中国の法令に同社は従う義務がある」などと語ったようです。私は、中国の「インターネットユーザーが1億1100万人を超え、米国に次ぐ世界第2位のオンライン人口を抱える」という点に注目しました。この中国をめぐる競争に立ち遅れる訳にはいかないというグーグルの判断は、確かに常識的ではあります。しかし、どうなのでしょう? グーグルは果たしてここで「常識的」であるべきなのかどうか、グーグル自身も、そしてこれを見守る世界中のユーザも考え続けるところの問題ではあります。

俺たちは別に生活には困っていないさ」・・・平川克美さんのニート論

今日の『カフェ・ヒラカワ店主軽薄』では、ニートの「働かない理由」を考えています。政治家たちが学校に競争原理を導入して問題を解決しようとしていることに反論して、「ニートの大量輩出には、ふたつの理由があると私は思っている。ひとつは、働かないでも食ってゆけるだけの経済的な基盤と、環境がそこにあるということであり、もうひとつはニートのひとりひとりが、就職して一生懸命こつこつ働くよりも、親に寄生してやりたいことを今やったほうが、自分の人生においてソロバンが合うと思っているということである」としています。つまり、平川さんは、「ニート現象」自体をさほど大きな問題と考えていない、というお立場のようです。
【写真】 飛び立ってから必至に壁にしがみつくシジュウカラの子鳥(2005.5.19)

・・・さて、どうでしょう。たろパパは、親たちも、また学校の先生も、この社会で「働くことの意味」をちゃんと子どもたちに伝わる言葉で持っていない点にニート問題の原因があるように思います。ところで、皆さんは、もし一生遊んで暮らせるほどの資産があったら、苦しい思いをして毎日働きますか? ・・・私の場合は、たぶん働かないだろうと思います。趣味とか興味を感じる活動なら何らかのことをするとは思いますけれども。・・・ということは、私もきっと潜在的なニートなんでしょうね!

水曜日, 4月 12, 2006

たろパパのブログ・オン・ブログ No.002

今日はこれから近県に出張です。間もなくあがりそうな雨ですが、雨の出張というのは鬱陶しい。昨日の記事で少し触れた明恵上人ですが、和歌山県金屋町に生まれ、承久の乱(1221年)の際、北条泰時に捕らえられたものの優れた言説で逆に泰時が帰依する、といった波乱万丈の人生を過ごした人のようです。次の「明恵上人遺訓」には、その人となりが大変よく表れているように思われます。
心の数寄(すき)たる人の中に、目出度き仏法者は、昔も今も出来(いできた)るなり。詩頌を作り、歌連歌にたづさはることは、あながち仏法にてはなけれども、かやうの事にも心数寄たる人が、やがて仏法にもすきて、智恵もあり、やさしき心使ひもけだかきなり

介護事業所が生き残る方法 http://d.hatena.ne.jp/miotukusi/

面白いブログをみつけました。たろパパのコンサルタントの仕事にも大きく関わるテーマのブログなのですが、梅田望夫さんの『ウェブ進化論』に触発されて、さっそく事業の改善に活かすというところに、実践的なアイデアが豊かで力のある方とお見受けしました。

阪大と東大の校風の違い http://mitsuhiro.exblog.jp/3775766

これは前回もご紹介した分子生物学の柳田充弘教授のブログですが、論文偽造問題などにからんで、阪大と東大のそれぞれの調査報告書のスタイルから両者の「文化の違い」を指摘しています。ひとことで言えば、人間くささが身上の阪大、官僚的無味乾燥の東大といったところでしょうか。・・・あまりうまく表現できません。どうぞ直接お読みください。

アカデミー最優秀外国語映画賞『Tsotsi』 http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20060411

これも前回ご紹介した町山智浩さんのブログで、この『Tsotsi(ツォツィ)』という作品が紹介されています。現在の南アフリカの状態、・・・アパルトヘイトが廃止されてなお黒人層の貧困と暴力にみち荒れた社会状況を背景に、「Tsotsi=チンピラ」と呼ばれる主人公の成長が描かれているらしい。ぜひ観てみたい作品です。

火曜日, 4月 11, 2006

「さなぎ」の時期 ・・・河合隼雄 『対話する人間』から

今日も河合先生の本から、「ユキコ現象」への一視角、「良い子」にしようと考えるな、「家出」の家が欲しい、といった章を読んでいきます。はじめの「ユキコ現象」というのは、1986年4月にアイドル歌手の岡田有希子(当時18歳)が自殺したことに続いて、思春期の子どもたちの自殺の報が相次いだことを指します。これらの章では、思春期の苦しみ、守りの必要、大人の役割りといったことが論じれられています。

【写真】 新宿副都心のランドスケープ(2006.4.3)

まず、鎌倉時代の名僧明恵(みょうえ)上人が13歳の頃に自殺を図り、「我一三歳にして既に老いたり」という有名な言葉を残したという逸話が紹介され、12歳から13歳の頃を「子どもとしての完成の時期」ではないかと指摘しています。そして、これに続く思春期を「死と再生」の過程、もっとも劇的な変化が進行する「さなぎ」の時期に譬え、この思春期を乗り越える苦しみが子どもたちにとっていかに深刻なものであるかを訴えています。たろパパの場合、どうだったかと振り返ってみますと、確かに思春期を通じて「我、老いたり」という感覚はあったように覚えています。それから、中学生の頃の「もう何がなんだかわからなくなった!」という不安で混乱した記憶もおぼろげながら残っているようです。私の場合(も?)、とりわけ母の懐深く長きにわたって「守られ」、比較的安定して「子どもとしての成長」に至る過程を過ごしただけに、この時期の混乱はより大きなものと感じられたのかもしれません。

この思春期の苦しみは「大人の常識を超える」ほど大きいこと、子どもたちは「なぜ生きのびねばならないのか」「生き続けて果たしてどうなるのか」といった問いを、容赦なく大人にぶつけ、周囲の大人の真実の生き方を凝視し、またその虚偽をつく真剣勝負を挑む時期なのだということ、・・・こうしたことは実に精確にこの時期の子どもたちのありようを語っていると思います。だから、大人は子どもたちのこの「吶喊(とっかん)」に耐えるだけの「壁」でなければならないのだということでしょう。

そして、こうした時期の子どもたちを「守ること」がいかに大切かということです。説教や介入を一切せず、ただただ暖かいベッドと心のこもった食事の用意のある場を用意する必要性、まさに「さなぎ」が孵化するまで、ひたすら静かに存在を守っていく場の貴重さ、ということでしょう。

また、各界で活躍する10名の著名人のインタビューを通じてあきらかとなった「問題児」のとらえ方についても大変面白いと感じました。一般に問題児とされる子どもについては、「なんらかの意味で大きい課題を背負った子ども」であり、この自分に与えられた大きな課題を解決しようともがきにもがいていくなかで、自らの個性を磨き上げていくという成長の必然的過程を検証しています。

さて、太郎がやがて「さなぎ」の時期を迎える頃、たろパパはその厳しい「検証」に耐えられるだけの内実を備えられるでしょうか。・・・あまり自信なく、もう今さら無理ということかもしれませんが、少しは頑張ってみようかと思い直したりしたことです。

月曜日, 4月 10, 2006

暴力と人間の心・・・河合隼雄 『対話する人間』から

たおっちとりきやんがリビングの床で互いに相手を押さえ込もうともがきあい、りきやんの背中に、やはり床に転がった太郎が蹴りを入れている。それぞれ本気でケンカをしている訳でもなく、また、イジメということでもないにしろ、蹴られたり押さえつけられたりした方は結構痛そうなくらい・・・これは、昨日、たろパパの家での「一日保育園」の時のようすです。見ていたたろパパは、「おいおい、ちょっとやり過ぎだ!」と何度も止めに入りましたが、3人ともなかなかやめません。3人とも卒園以来1年が経っており、普段は一緒に遊ぶこともほとんどありませんが、この日、顔を合わせた途端、あたかも昨日まで保育園にいたかのように遊びだしたとのことです。

【写真】 桃の花でしょうか、ちょっとピンボケですが (2006.4.7 善福寺川で)

「暴力と人間の心」の章を読んで、その内容を子どもの成長という視点でまとめると、次のようになります。
1)近代社会では人間を心と身体に分けてきたが、それがあまりにも行き過ぎたため、人間そのものの理解が歪んでしまった。
2)暴力は否定されるべきものだが、同時に、人間存在の直接的な表現として人間を理解する大きな手がかりになるものでもある。
3)大人の考える「よい子」の枠に閉じこめられることによって問題を抱えた子どもに遊戯療法を行うと、いきなり治療者に激しい「暴力」を振るい出すことがしばしばある。
4)子どもたちの存在の深層から吹き出してくる暴力=力の放出が建設的なものになるためには、誰かがこれを全力で受けとめる、立ち向かうことが必要。

さて、数日前の朝日新聞に、3月のはじめに世田谷で起きた中学生による放火事件の分析記事(深津慶造記者)が載っていました。この記事によれば、中学生が「父親が自分を信頼していない」と感じたことが、放火の直接のきっかけになったとのことです。しかし、同時に「父親は、少年の生活を改善させようと懸命だった」らしい。・・・難しいものです。背景には両親の離婚があり、不登校と家庭内暴力の後に、少年は母親のもとへは戻らず、自ら父親と暮らすことを望んだという経緯がありました。父親の努力と少年の気持ちがすれ違ってしまったということでしょうか。ここで父親の努力が空回りしていたとして、どこをどのように変えるべきだったかと問われても、私には見当がつきません。

爆発する思春期の子どものパワーを建設的な方向に転位・発展させるほどの「壁」になること、・・・河合先生の言われることは理解できるのですが、実践においては、なかなか一筋縄ではいかない難しさがあるように思います。

日曜日, 4月 09, 2006

モツゴくんたち、深手を負いながらも、恐怖のザリガニ水槽から生還!

今日は、太郎くんの保育園のお友達やそのママたち、パパたちが集まり、太郎くんの家はワイワイガヤガヤの一日保育園状態になりました。ご近所の皆様、お騒がせしました。狭い太郎くんの家に「定員」の3倍ほどの親子がすし詰め状態になりましたが、あんまり楽しそうでしたので、またいつかこうした集まりをどこかでやれたらと感じたところです。ただ、たろパパは仕事が入ってしまい、夕方まで戻れませんでした。申し訳ありません。

さて、「生き物を大切にするように」というたろパパのお説教がぜんぜん通じない太郎くんですが、今朝は「そうだ、ザリガニの水槽にモツゴを入れて、ザリガニが食べるところをみたい」とか急に強硬に言い始めました。たろパパは、最初、「そんな残酷なことはヤメロ!」とか言って止めたのですが、「どうしてもやりたい」と言い張る太郎くんについに負けてしまい、大きめのモツゴを(2匹だけ、夕方まで、という条件で)ザリガニのいるプラスチック水槽に入れてみることにしました。こういう強硬さも困ったものではあります。
【写真】これは昨晩のモツゴのようす・・・「バトル」以前の状態(2006.4.8)

それで、夕方、たろパパが戻って聞くと、太郎くんはザリガニ水槽のモツゴくんたちのことなどコロッと忘れていて、まったく薄情にも「ああ、どうしたかなあ」なんてのんびりしたお返事でした。そして、たろパパが一緒に調べてみると、一応、2匹とも無事で元気でしたが、なんと大きい方の1匹は、背びれから腹にかけて大きな傷を負っているではありませんか。やはり、つい気を許した隙に、ザリガニに襲われ、からくも逃げたといった感じです。さっそく、2匹とも小アミで捕らえ、仲間のいる水槽に戻しました。

傷を負った1匹は、立ち直るようにみえます。頑張ったモツゴくんたちには水で戻したジャコを与えました。よく食べています。太郎くんは10人近いお友達と目一杯遊びまくったために、今日は疲れて早く寝てしまいました。明日からまた学校があり、通常ベースとなります。以上、モツゴくんたちの大冒険のお話でした・・・。

ツバメがやってきた?

4月7日(金)の午後5時頃、善福寺川でツバメを見ました。2羽ほどが、川面にそって約30mほどの間を繰り返し往復。空中の虫を捕食していたようです。で、下がその写真です。どうでしょうか、これはツバメでしょう? それから、「鳥の撮り方は?」(サブーいオヤジギャグでスミマセン!)といったコメントも頂きましたが、この場合は、カメラを覗かず、胸の前にカメラを構え、ツバメの動きに合わせて動かし、近づいてきたところでカシャッとやります。10回くらいシャッターを押すとうち1枚くらいにある程度形のわかるものが写っています。


【写真】 今年初めてツバメを見たような気がします
(2006.4.7 杉並区内の善福寺川で)

土曜日, 4月 08, 2006

野山北・六道山公園でモツゴ釣り

この公園には先日、たくさんの皆さんと一緒に「ザリガニ釣り」に行きましたが、今日は昼頃の雨をやり過ごしてから、たろパパのお家だけで太郎くんにとっては初めての「魚釣り」に出発しました。太郎君は、「赤ペン先生」で頑張った賞品に本物の釣竿を頂いたそうで、初めての釣りに行くために無茶苦茶張り切っています。まず、釣り入門のマンガ本を片手に、一緒に釣り具店のおじさんに釣り針などを揃えて頂きました。ハリスのついた釣り針、赤虫、浮き、ゴム管、ミチイトなどです。
【写真】野山北・六道山公園で(2006.4.8)

さて、車で1時間ほど、先日の里山民家よりさらに西側に位置する谷地の奥にある池に着きました。さっそく釣りを始めました。が、赤虫を釣り針に仕掛けるのがなかなか面倒で上手にできません。たろパパは指先を真っ赤にしながら頑張ってみました。最後の頃には餌つけも上達したのですが、最初は1匹づつ針にさしていたために喰いつきもあまりよくなく、太郎くんやママは何度も釣りかけた小魚に逃げられました。

結局、たろパパが3匹ほど5センチの超「小物」を釣り上げたほか、太郎くんが網などを使って7、8匹小さな魚を捕まえました。もっとも、太郎くんは「釣りに行ったんだから、釣ってきたというんだ」と強く主張しています。この魚、家で図鑑で調べてみましたが、どうも、モツゴに似ているようです。また、モツゴが11匹も来たためにワリをくったのがどんどこ池からやってきたザリガニ君です。今まで住んでいた水槽を追い出され、プラスチック容器住まいとなってしまいました。今頃、ザリガニ君はモツゴたちをうらやましがっているかもしれません。そして、きっとたろパパを恨んでいるに違いありません。

【写真】これはモツゴ? 11匹もやってきました(2006.4.8)

金曜日, 4月 07, 2006

悪の体験・・・河合隼雄 『対話する人間』から

今日は、「悪の体験」と心のエネルギー、という文章から。
この文章には、臨床心理の実践から「最近の子供は『悪の体験』がなさすぎると思う。別な見方をすれば、『悪の体験』をする機会を奪われてしまっているのではないか」とあります。この文章の初出は1981年となっていますので、河合先生がこのように感じた時代というのはすでに30年ほども前ということになりますが、この指摘は今でも充分に通用するものと思われます。・・・それはともかく、続けて「我々は成長過程の中で、『悪』を少しずつ体験してきて、それをどの程度までとり込んだら良いかを学ぶようになる」とあります。「悪」をコントロールすることを身に付けさせるということですね。

【写真】 早い! 今年はじめて鯉のぼりを見ました(2006.4.7)


そして、「多くの親は良い子を育てようとして、単層的、単純な『良い子イメージ』を子供に押しつけてしまう。本来、子供というものは、多層的、多義的な存在であり、悪を含むものなのである」、「親の監視が行き届きすぎて、子供は悪いことや失敗を通じて成長してゆく機会を奪われている」、「家庭内暴力を振るう子は、その殆どが『良い子』であるといって間違いない」としています。子供が「悪を含む」というより、善悪の価値観は社会的なもので子供に生来備わっているものではないという表現の方が適切かとは思いますが、ここで先生が強調されている認識は広く共有すべきことに違いありません。僕も太郎をつかまえて「生きものを大切にしろ」とか「小さな子をいじめちゃイカン」なんて時々お説教を垂れますが、これも単なる自己満足ということなのでしょう。

「悪いことも少しずつ体験させて悩ませる」「少しずつ悪い行為をコントロールできるように育てていく」・・・これって、木登りをさせて危険から身を守る力を育てるというやり方と共通するものがありますね。子供を信じながら、むしろ「何もしない」ことに心のエネルギーを使うこと、ちょうど、柳橋保育園の先生たちが木登りする子どもたちをハラハラしながら見上げているようなイメージでしょうか。・・・うん、一人前のパパになる修行もなかなか複雑であります。

木曜日, 4月 06, 2006

たろパパのブログ・オン・ブログ No.001

教授らの論文ねつ造事件に関する東京大学報告書について
分子生物学の柳田充弘教授のブログでは、論文ねつ造事件について調査を行った東京大学の報告書の感想が記されています。柳田氏は「この調査報告の、公開性、透明性にたいへん感心しました」とし、「捏造事件はたいへん困る出来事ですが、当該研究機関での、事後の処置が健全であるならば、救いもあり、また研究者コミュニティーの力強さを感じることもでき」ると記されています。なお、この『柳田充弘の休憩時間』は、過去二年間、ほぼ毎日のように書き継がれてきたブログで、研究者としてのみならず、社会人、家庭人としての関心を含む極めて多彩な内容となっています。知性派ブログの典型ですね。
内田樹研究室 『九条どうでしょう』プレミアム試写会
内田先生たちがお書きになり、この3月25日に発売された『九条どうでしょう』(毎日新聞社)を面白タッチで紹介しています。この本は、内田氏の他、平川克美・小田嶋隆・町山智浩の4氏による憲法九条論とのことですが、どうもこの4人は特別な「ブログ仲間」らしいのです。内田氏によるとこの4人は「私が毎日読みにゆくブログの書き手」たちであり、ある事件が起きると、「この人だったら、どういうふうにコメントするだろう?」とどうしても知りたくなる人たち、なんだそうです。本の内容の方も時宜を得た内容のように思われます。今度、たろパパ日記でも感想を書いてみましょう。で、4氏のそれぞれ魅力的なブログはつぎのとおりです。

内田樹研究室 http://blog.tatsuru.com/
カフェ・ヒラカワ店主軽薄 http://plaza.rakuten.co.jp/hirakawadesu/
偉愚庵亭憮録 http://takoashi.air-nifty.com/diary/
ベイエリア在住町山智浩アメリカ日記 http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/

※「たろパパのブログ・オン・ブログ」では、私が気になったブログをその折々、テーマと共にご紹介していきます。

【写真】 お兄ちゃんたちはもうみんな飛んでいっちゃった!
うーん、ボクはどうしよう? ボクも飛べるかな、・・・エイッ!
(2005年5月19日、巣立ちの朝、ポンポコ池のそばの巣箱で)

水曜日, 4月 05, 2006

親子のきずな・・・河合隼雄 『対話する人間』から

週刊『プレイボーイ』の「Nシステムは想像以上にヤバかった」が面白い。例の愛媛県警から流出したNシステム情報(約8,000件)についてレポートしている。全国の900箇所近い監視カメラ、中央のデータベース、数千から万に及ぶと思われる検索端末等々のシステムの維持にいったいどれだけの税がかかっているのだろう。年間10億円では足りないだろう。人件費を含めて100億円くらいだろうか。もちろん「費用対効果」については考えなければならないが、たろパパはこうした元祖「監視社会化」みたいなシステムは止めるべきだと思う。だいたい権力をもった組織というのは腐敗するし。 ・・・でも、久しぶりにこの週刊誌を買って懐かしかった。たろパパが初めて買ったのは、中学1年生の頃だったか。あるいは後で廃刊になった『平凡パンチ』だったかもしれない。
【写真】花壇のチューリップ(2006.3.28 善福寺川あたりで)

さて、今日は『親と子のきずなとは』について。これは1984年頃、里親の集まりでの河合先生の講演録です。要旨をまとめると、つぎのようになります。
1)親子の関係はひとつひとつ異なり、一般論ではくくれない。ひとりひとりが答えをみつけていくべきもの。
2)普通の人間の日常のあり方は、「自分は誰、何者?」といった根元的な問いとは次元の異なる「ささやかな事柄」に支えられている。
3)アメリカの契約的親子関係はある面でわかりやすいが、それを機械的に日本に持ち込んでもうまくはいかない。日本人は「縁」のような説明困難なもので人間関係を「説明」する。また、自立と依存については対立項として捉えるべきではない。
4)親子の関係は何度も結び直していくもの、そして、いつか子どもの独立によって切れていくもの。

太郎の「パパのたぬくそ」ではありませんが、子どもも4、5歳になれば父親を反抗の相手として考えるようになるのでしょう。太郎にしてみれば、私は身体も大きいし言葉もいろいろ知っている、お金ももっている。今でも公園に行けば「パパ、あそこまでかけっこしよう!」とか言って本気で挑んできます。最近でこそ、負けて泣くということも少なくなりましたが、5歳くらいまではジャンケンで負けてもトランプで「神経衰弱」をやって負けても、大泣きしたり猛烈に怒って噛みついてきたりすることがよくありました。

これから2、3年もすると、太郎もいったんはスッと親から離れていく時期が来るだろうと思います。そして、そこからまた新しい段階の「関係づくり」が始まるのでしょう。「答え」は自分でみつけるということ、ですね。

火曜日, 4月 04, 2006

「壁」の必要性・・・河合隼雄 『対話する人間』から

掛け流しTVで、昨日の小泉首相の国会答弁を聞いていて思わず吹き出しました。
「1つの問題を条件付けて、このことで言うことを聞けば会う、この条件を満たさなければ会わない。そんな国はほかにない。こういう時期に、1つの問題で意見が違うから首脳会談しないという方がおかしい」
・・・これって、去年、郵政民営化をゴリ押しする首相に反対して自民党から叩き出された皆さんが叫んでいたワン・フレーズ・ポリティクス批判の大合唱と同じ言い方ですね。ここで、「1つの問題」=郵政民営化、「会う/会わない」=自民党員として認める/認めない、等々と入れ替えてみるまでもないでしょう。これは誰でも判ることで、恐らく首相ご本人も「この言い方は突っ込まれるかなあ」と内心感じていたのではないでしょうか。ついでに「言葉の力を信じる」朝日新聞の朝刊には、この首相発言の「妙」を取りあげた評論はなかったようです。こういう言葉の隙をすかさずパロってみせる方がいれば、きっと大ウケするところです。

【写真】今年の桜もそろそろ見納め(2006.4.4 玉川上水で)

さて、昨日に続いて河合先生のご本から「青年期の生き方について」を読んで気がついたことを書きます。この文章では「子どもが大人になる、ということはなかなか大変なことである」として、青年期の問題を特に中学生の時期に絞って書いておられます。「人によって多少の差はあるが、中学生時代に人間の心の奥底において生じている動きは、ほとんど言語的に伝えることができないものと言うべきであろう」とし、子どもたちが出会う「性」、生と死の試練、自立と依存、グループの意味、そして大人が「壁」となる必要性といったことが述べられています。

「心の底から生じてくる強い力によって、中学生が行動しようとするとき、それに対して正面から受けとめ抑止する力がはたらいてこそ、そこに建設的なことが生じてくるのである」として「壁」の意義を語り、しかし、この大人の「壁」は子どもたちをはね返すものであっても、子どもたちを締めつけるものであってはならない、と実に的確に、大人あるいは教師の果たすべき役割りと境界を示しています。

【写真】 散る桜ながら陽をあびて精一杯咲いています(2006.4.4 玉川上水で)

たろパパの中学の時の先生たちはどうだったかなあ、と遙かに振り返ってみると、やはりそれぞれご自分というものを前面に出して受けとめてくれた方が多かった(そういう先生が40年近く経っても強く印象に残っている)。・・・もちろん当時は、コノヤロ!とか思ったこともあった訳ですが。でも、パパになるということはなかなか難しい、たろパパじゃなくてまだまだ「あすなろパパ」かなあとか思ったことです。

月曜日, 4月 03, 2006

過保護でよい?・・・河合隼雄 『対話する人間』から

河合先生のこの本を読み始めました。1992年の発行で各文章の初出はさらにこれを遡るようです。今後、私が気がついたこと、疑問に思ったことなどをメモしていきます。

太郎が生まれた頃、乳幼児を両親がはさむようにして寝る「川の字」について、その是非をめぐる論議があったようです。太郎については、私の方に若干の異論があったものの妻の主張が通り、結局のところ「川の字」を通してしまうことになりました。これがよかったのかどうか・・・。この本の冒頭に置かれた「過保護なくして親離れはない」によると、「子どもを幼いときにかわいがるということは、どんなにしてもしすぎることはない。母親の心性として、子どもをかわいがるということは自然なことである」として、逆に、過保護はいけないと考えて妙に子どもを突き放してしまうことの問題性を指摘しています。

【写真】今日、天気予報では低気圧による突風が吹き荒れるとのことだが、朝
の東京は富士がきれいにみえるほどの快晴だ(2006.4.3、杉並区内から)

もともと「過保護はいけない」という発想は、子どもの自立心の成長を妨げる、個性の発揮を妨げるといった理由に基づくものと思われます。アングロサクソン流の子育てでは、乳児に母親が添い寝をすることすら避け、定時に授乳する時以外は少々泣こうが抱き上げもしないということらしい。・・・この点、私の認識が誤っていればご教示願いたいけれども。

それでは太郎はどのように育っているか。人との関係性の持ち方など、いろいろ心配なことはあるけれども、自立性という点に絞ってみると、さすがに「川の字」型でまだまだ母親べったりの状態ではあります。家の中では実に「態度が大きい」けれども、外に出ればおとなし過ぎるくらいおとなしい、内弁慶外ミソの典型。この子がいったい、いつか親の手をスッと離れ、人の波に揉まれてながらも確かに生きていくのか、はなはだ心許ない思いはします。まあ、そうなってもらわなくてはならないし、できるだけの「訓練」はしたいと思っているのですが。

日曜日, 4月 02, 2006

今年もシジュウカラが・・・

昨夜は、太郎が明け方まで嘔吐と下痢を繰り返し、大きな洗濯物の山を築きました。幸い先ほど起きてきた時には元気を取り戻していました。今週、たろパパも風邪気味でしたので、それが感染ったものかもしれません。話は変わりますが、たろパパのお家には小鳥の巣箱があり、去年の春(4月末から5月末頃)、シジュウカラが営巣して10羽ちかい子鳥が、孵化、巣立ちました。

さて、朝起きてみると、ピチュピチュというシジュウカラたちの鳴き声が聞こえました。どうも玄関先の巣箱に出入りしているようです。・・・ということは、去年のつがいがまたここで巣づくりを始めたのかもしれません。あるいは去年の春、巣立った子鳥でしょうか。
たろパパは思い立ちカメラをもって、周りに鳥たちの姿が見えないことを確認し、そっと巣箱の側板をあけてみました。・・・そう、3月の初めには空っぽだった巣の中にたくさんのゴールドクレストの葉などが積みあがっています【写真】。この上にまた去年のように繊維状の材料で巣をつくるのかもしれません。

たろパパが巣箱の写真を2、3枚撮った時です、突然、頭上でジジジ・・・とシジュウカラの警戒の鳴き声が響きました【写真】。見つかってしまったのです。いやー、めんご、めんご。たろパパは「何でもないフリ」をして巣箱のそばを離れました。・・・シジュウカラくんたちがこれをあまり気にせず、巣づくりを止めてしまわないよう祈りながら。・・・太郎くんたちにも、これからしばらくの間、巣箱をあけてみたりしないようお願いします。

土曜日, 4月 01, 2006

梅田望夫 『ウェブ進化論』 を読んで

今週、またクルクル社のエンジニヤたちとお話しする機会があり、グーグルの成長はいつまで続くのかといった議論をしましたが、この点について「確実そう」なことは誰も言うことができません。この場にいたあるエンジニヤは大変優秀な方でメインフレームの時代にはベスト&ブライティストといってよいポジションをしめるプログラマでしたが、ウェブ2.0時代について興味はあるものの、本格的にこの変化の波に乗っていこうというスタンスは薄いように感じられました。いや、この方のみならず、僕らの世代全体が「歳をとった」のです。

1970年前後の学生叛乱、1990年代のオウム真理教事件、昨今のライブドアの暴走と挫折、・・・政治、宗教、経済と、内容も異なり評価も一様ではあり得ないけれども、それぞれの時代のもっとも優秀な若者たちを惹きつけあるいは巻き込んだ運動なり組織が、既存社会により「叩き潰される」ことによって時代の混迷、日本社会の閉塞感がさらに深まる、といった経過には共通するものがあります。

【写真】 ほら、グラグラしている歯をみせてごらん!

こうした中で、梅田氏が21世紀初頭の今が「時代の変わり目」とはっきり言いうるのは実に凄いことに違いありません。梅田氏はアナライズで語るな、具体的に理解せよと書いてはいるけれども、ジョン・バッテル氏がグーグルの試みを古代エジプトのアレクサンドリア図書館になぞらえたことは適切だろうし、グーグルや今始まろうとしている「ウェブ2.0」の時代を、インターネットの2チャンネル的「ダーティ・イメージ」の末に現れた「希望」として捉える神話のアナロジーもけっして間違ってはいないでしょう。

一方、ネット社会に身ぐるみハマりこんでいない大半の日本人は、マスコミの流し続ける「インターネット=邪悪、危険」イメージに捕らわれ過ぎているように思います。いや、ネット社会に片足を突っ込んだ私のようなおじさんでも、大半はネットの可能性より危険性に目がいっている方が多い。しかしながら、結局のところ、マスコミの皆さんを含めて、自らをイノベーションし続けることができなければ、この時代の大きなそして確実な変化から取り残され立場を失う、・・・この本に「主張」があるとすれば、こういうように翻訳できそうです。

ひとつだけ具体的に書くと、この本の中で「待たれる自動秩序形成のブレークスルー」などブログの可能性と課題を論じた「ブログと総表現社会」の章は、駆け出しブロガーとしての私にとって最高に整理された価値ある内容でした。ブログについてこれまで感じてきたこと、わずかの期間ながらブロガーとして体験したことを「言葉にして頂いた」という感覚です。また、ここにはクルクル社が進むべき方向に関しても大きく参考になる貴重な視点が含まれていました。・・・新書としては豊富過ぎるほどの内容が盛り込まれた一冊です。