土曜日, 1月 20, 2007

多摩川にサケが帰る日

柳橋保育園の年長さんたちは、毎年夏になると多摩川の支流、野川でメダカとりをやっています。川に魚やエビが棲み、空に鳥たちが飛び、樹にはセミ、クサにはカマキリがいて、これを探して捕らえることの楽しみを知った子どもたちがどれだけ生き生きしているものか、こういう子どもたちを見るのは、実に楽しいものです。

太郎もまたこの保育園で育ち、虫捕り、魚釣り大好き少年になりました。12月から育てているサケの稚魚たちも、今、ピチピチと水槽を泳ぎまわって二月の多摩川への放流を待っています。東京のような大都市にすむ者にとって、多摩川の自然がもつ価値は計り知れないほど大きいといわなければなりません。

しかし、この多摩川の自然は誰のものなのでしょう。私は、この素朴な疑問について、もっともっと真剣に、具体的に、私たちの生活のあり方、子どもたちの未来までをもよくよく考えていかなければならないと思います。もちろん、自然は誰のものでもありません。だから、私たちはこの多摩川に対して手を加える場合、それを私たちがこの流域で生きるうえで必要な最小限のレベルにとどめなければなりません。


【ビデオ】多摩川でこんなサケ釣りができるようになる日は来るのか・・・

しかし、現状はこの「必要な最小限の人為」の限度をはるかに超えた行為がなされています。台風が来れば河が暴れ出すのはあたりまえです。毎年くるような台風や嵐で河が暴発するから、淀みにたまる汚れが一掃され、河は生き生きとした自然の相貌を取り戻すのではないでしょうか。流域が都市化し、ちょっとした雨がいきなり越流となって河川の氾濫をまねく、そういう事情もあるでしょう。・・・しかし、だから今のような高度な河川管理が必要というのはこじつけです。

多摩川にアユが戻ってきた・・・これはもちろんよいことです。でも、型が小さいのは餌不足のせいといいます。これはどういうことでしょうか。アユの餌になる岩のコケが少ないとすれば、原因は何なのでしょうか。こうしたことも充分に調べてほしいと思います。私たちの毎日の生活、行政、企業など社会の組織、構造のあり方、こうしたすべてのことが多摩川とそこに棲む生きものたちの姿に影響しています。

来週末の「多摩川流域市民学会」の、情報・経験・英知を集め、互いを高めあうことで、多摩川水系における「いい川づくり」を目指します・・・という目標をとりあえず受け入れて参加してみようと思います。まずは「いい川」のイメージを話し合えたらいいと思います。たぶん、そこに大きな(多摩川くらい大きな)溝が存在しているのではないでしょうか。少なくとも私と現在の河川管理をされている方々のイメージの間にはそれがあるようです。

5月の連休から10月まで、休みごとに無数の川ガキが魚を突き、鳥や虫を追いかける川。夕暮れになると、人々が川辺に群れて落日を見入るような暮らし。数年に一度は台風で氾濫するが、氾濫することを前提につくられた両岸の街なみと生活。50年後、太郎が今の私より高齢になる頃、日本の総人口は、今より3700万人も(!)少なくなります。多摩川の河川管理と整備に毎年どれくらいの費用をかけているのか(少なくとも数百億?)存じませんが、もういつまでもこの予算を前提に生活をしていくといったことは成りたたなくなります。

2月10日に是政橋からオホーツクに向けて旅だつサケの稚魚たちが、70センチほどに成長して戻ってくるのは数年後です。もし本当に戻ってくるとして、どの堰まで遡上できるでしょうか。その時には思い切り(上の映像のサーモン釣りのように)サケ釣りに挑戦してみましょう。その時までに、多摩川が少しでもよい方向に変わっているように努めていきたいと思います。

多摩川流域市民学会

昨日の朝日新聞の多摩版に掲載されていた記事で知ったのですが、多摩川流域市民学会というグループが1月28日(日)、福生市民会館で、「多摩川で初めての市民の手による川の学会」を開くそうです。以下、引用ですが、このブログのページもどうぞご覧下さい。私(たろパパ)は参加してみようと思っておりますが、どなたかご一緒できたら、と思います。いかがでしょうか。

(以下、上記ブログから引用)・・・源流から河口までの広い流域を視野に入れ、各流域で活動 される人々の多様な活動を知り、情報・経験・英知を集め、互いを高めあうことで、多摩川水系における「いい川づくり」を目指します。
市民学会とはいっても、市民だけでなく、行政、大学、小中高校、企業、NPO法人など、個人、団体を問わず、どなたでも参加することができます。
この学会を、多摩川に関する様々な問題やその解決策を、市民が主体となって、調査研究、実践する場として、多摩川の未来を、共に切り開いていきましょう。
みなさんのご参加をお待ちしています。

【写真】多摩川で川遊び(2006.5.3 秋川渓谷で)

金曜日, 1月 12, 2007

ユー・チューブで鮭の稚魚たちを

皆さま おはようございます
ついにたろパパもユー・チューブにデビューです。
12月15日頃、つぎつぎと誕生した鮭の稚魚たちですが、結局、3匹が死んでしまい、3匹が泳ぎ出すところまで成長できませんでした。残り15匹が、こうして元気に泳ぎ回っています。受精卵と一緒に太郎が預かってきた餌(乾燥したタラコのようにみえます)も食べるようになりました。この稚魚たちは、2月の連休に多摩川からオホーツク海にむけて厳しい生存競争の旅に出発することになります。(ビデオは約4分弱。サイズは8MBほどです)。



※なお、このビデオにはニュースの音声などが入っています。・・・まあ、素人っぽくていいでしょう。それから、IE(インターネットエクスプローラV6)でみると、映像の右端が切れてしまいます。ファイアフォックスではテキストの位置より右にずれています。・・・こういうのを上手に調整するやり方はないのでしょうかね?

※なんと、その後「たろパパのアクアリウム」をつくってみました! ・・・どうぞご覧ください。

水曜日, 1月 10, 2007

日本人の「コミュニケーション」をめぐって

コミュニケーションを日本語では何と言うのでしょう? 会話、触れあい、交流、意思疎通、・・・どれもうまくあてはまらないようです。そして、日本ではバランスのとれたよいコミュニケーションというものをもつことが、何かすごく難しいことのような気がします。それは何故なんだろう・・・私はそういう疑問を長い間、抱いてきました。
【写真】たろパパ(太郎が3歳頃?に描いたもの)

この日本人の「コミュニケーション不全」問題(!)に、最初に気づいた時、私は、「日本人の人間関係はあまりにも濃密過ぎて、言葉によらないところが大きいのだ」といった風に考えていました。でも、だんだんわかってきたことは、そうではなくて、どうも私たちの社会では「言葉を交わすことがコミュニケーションのベースになっていない」「ほとんどの日本人は、そもそも聞く、話す、読む、書くというコミュニケーションの基本的な訓練ができていない」という、何とも呆れるようなことだったのです。

去年、高齢ママさんがブログで「先生と、コミニュケーションがとれません!」と書いていたのを思い出します。・・・高齢ママさんが聞いた時に返ってきたコグマくんの先生の答えがチグハグというか、ほとんどズレています。そうなのです! 日本の小学校では、まず先生たちの、この「聞く、話す・・・」という訓練ができていません。

そんな風に思って、それとなく太郎の勉強のようすをみていたところ、冬休みの宿題になっている「硬筆・書き初め」というのが目につきました。このリンクにした先は新潟県の書道教育研究会のホームページですが、ご覧のとおり、ここで「書き初め」をする文章というのは、子どもたちが考えるのではなく、決まった文章になっています。

これは文字を正しく美しく書く練習で、文章を書く練習ではない・・・それはそのとおりだと思うのです。しかし、私の勘ぐりかもしれませんが、どうも日本の小学校では、この「書写」の練習の先に「作文」が来るのではないか、・・・少なくとも子どもたちの意識の中ではそうなのではないか、と疑われます。そうなると、作文というのはまず「お手本」があって、お手本に一番似たようなことを書くことがよいとされているのではないでしょうか。心にないことを書いてよい点を取るのが作文だとすれば、これは苦痛ですね。

無着成恭先生の生活綴り方教育はどうなったのでしょう。あるいは、昨年亡くなった灰谷健次郎さんの優れた指導で、いきいきとした子どもたちの詩がたくさん生みだされたことが思い出されます。子どもたちの心には、燃えあがるように育つものがあります(あるはずです)。恵まれた環境であれ、逆境であれ、子どもたちは心に浮かぶそれぞれの思いを言葉にしていくことで、現実をとらえ、成長していきます。この自らに発する「思い」こそ、コミュニケーションの基礎であって、お手本を真似する苦行を強いて作文嫌いをつくりだすなどということは、子どもたちを損なうものだというべきでしょう。・・・思い返すと、私も小学校の作文というのは間違いなく嫌いでした。だいたい「何を書いてよいか、わからなかった」からです。本当は何を書いてもよいのに、・・・書きたいことを書けばよかったのですね。

「聞く、話す」ということについても、日本の小中学校では重視されていないようです。これは、本来、読む/書くよりも深いところに位置するはずですが。友だち同士で、まずお互いの話を聞く、そして、話す、・・・これが出発点です。聞くというと、まず先生の話を畏まって聞くことになってしまう・・・これは何か順序がおかしい。また、話すというと、国語の教科書をみんなで声を揃えて音読する、これも何か違う。自分が体験した何か面白いことを友だちにぜひ伝えたい・・・例えば、そういった「人に伝えたい」という思い、それを見つけるのがベースのはずです。声を揃えて音読するというのは、読む練習にはなっても話す練習にはなりません。話す練習は、心に浮かぶあれこれをまず「書き出してみる」ことから始まるのでしょう。

コミュニケーション不全の日本人に対比して、キリスト教の影響の強い西欧社会はさすがに「ロゴスの文化」です。歴史に残る政治指導者の演説なども枚挙にいとまがありません。大抵の日本人は、リンカーン、チャーチル、キング牧師のそれぞれ一世を風靡した名句を覚えているでしょう。彼らはそのスピーチを通じて、危機の時代に人々が進むべき理想を示し、あるいは社会の団結を生みだしたのです。それらの言葉の意味するところは明確でした。だから歴史に刻まれたのです。

日本人、そして日本の政治家の言葉に対する姿勢はどうでしょうか。「劇場型政治」として有名になった小泉首相は、自らの所属政党である「自民党をブッ壊す!」と叫び、それに多くの日本人が拍手喝采を送りました。どうも論理的ではないですね。他方、安倍首相は「美しい国」というイメージに過ぎない言葉を繰り返していますが、国民はこの言葉が意味するところをどうも掴みかねているのではないでしょうか。ひょっとすると、言っているご本人もあまり判っていないのでは、と疑われます。・・・少なくとも、この二人の言葉が、他国の人々の記憶に長く留まることがないことだけは確かと思われます。

日曜日, 1月 07, 2007

カヌーで川の旅

新年になって、ご近所のパパと居酒屋で新年会となり、今年は川でカヌーで遊びませんかという話で盛り上がりました。そのパパは、カヌーをする、釣りをする、ウィスキーを楽しむ、ちょうど開高健のように・・・という。うーん、そういうのは都市住民にとって最高の贅沢なんだよなあと思いつつ、なんとなく「やる気」になりそうな自分が怖い。


【写真】「元イクラ」くんたち、ずいぶん「魚らしく」なって元気に泳ぎまわっています(2007.1.6)


そこで、日本の元祖=自然派みたいな位置にいるカヌーの野田知佑さんについて、ホームページであちこち読んでみました。すると、ますますカヌーをやってみたくなりました。実は、たろパパは、この日記にも書いたとおり、去年の10月にはカヌーに初挑戦したのでした。年末にはNHKで、カヌー犬を連れた川の旅の放映が繰り返しあったので、なんでもノリのよい(良すぎる?)たろパパは、もうすっかりカヌーイスト気取りです。

カヌーについてホームページを見ていくうちに、去年の夏、なんと多摩川の中流から羽田まで手作りカヌーで漕ぎ下った中学生たち(多摩中学校、小金井第一中学校)がいたことがわかりました。ビデオしかみませんでしたが、「目指せ東京湾!」と大いに盛り上がったようです。

私が仙台から上京した1970年代の初め頃、多摩川は堰に洗剤の泡が山とたまり、とても川遊びができそうな川にはみえませんでした。今、ようやくカヌーで遊ぶくらいはできるようになったわけですね。上の写真の「元イクラ」くんたちも、この多摩川から遠くオホーツクの海を目指すことになります。今後、この多摩川を、小さな子どもたちでも泳ぎ回ることができるくらいまでにきれいにすることができるでしょうか。あるいは余分な護岸などを取り払い、少しでも自然河川に近い姿にすることも大事なことだろうと思います。

多摩川を、吉野川や四万十川にひけをとらないくらい自然豊かな河川にすることは「夢」でしょうか。東京で育つ子どもたちが、みんな多摩川で「川ガキ」の経験をもつような時代がくれば、日本も少しは住みやすいところになるに違いありません。・・・たろパパの今年の目標は、このあたりに焦点をしぼろうかと思案したことでした。

火曜日, 1月 02, 2007

あけましておめでとうございます

東京はおだやかな新年になりました。
皆様から、年賀状、年賀メール、たくさん頂きました。
本年もよろしくお願い致します。