金曜日, 11月 10, 2006

近藤淳也著 「へんな会社」のつくり方

私の勤務先のごく小さなコンサルタント会社が、この秋、創立15周年となり、これを機に新分野で関連会社を起こそうという計画が進んでいる。・・・と言っても、もともとが数名しかいないところだから、それほど大きな事業を考えることもできないのだが。会社づくりマニュアルみたいな本も買ったが、ふと思いついて、近藤淳也著 「へんな会社」のつくり方 を取り寄せて読んでみた。近藤さんについては、今年の春に「はてなに入った技術者の皆さんへ」といったブログを読ませてもらい、大変優れたリーダーであることはわかっていたが、この本によって、さらに高い評価を与えるべき方だということを確信した。


【写真】もう一ヶ月ほど前のようす。このシーズンは恐らく延べ20匹くらいのカマキリを捕まえたが、もうすべて死んだ。後には、オオカマキリ、ハラビロ、コカマキリのそれぞれの卵胞が残された(2006.10)

この「近藤淳也という現象」で、もっとも注目したいのは、例えばある種のコミュニケーションの質について徹底してこだわるその個性と共に、子供時代の育ち方だ。盛り場も子供むけの施設もない田舎の原っぱで、近藤少年は毎日毎日、日暮れるまで友だちと遊びほうけていたらしい。具体的に書いてはいないが、いたずらっ子であったこともほぼ間違いない。この、ほとんど「野生児」としかみえない少年時代に、現在の資質が育まれたのだ。

ひるがえって、最近の「いじめ」をめぐる動きについてみていると、今の学校というシステム、先生たちが、もう大変に歪み、そして固まりきっているという印象がますます強い。文部科学大臣が、いじめによる自殺予告の手紙に大慌てで対応したり、東京都の教育長のメッセージが配られたり・・・。どうして、ここまで「いじめ」問題が焦点化しないうちにきちんとした対応をとろうとしなかったのか。ひょっとすると文部科学大臣にしても、東京都の教育長にしても、「問題」が一段落した後では、旧態依然とした態勢が続いても何も変えようとはしなくなるのではないか、・・・こうした疑問が拭えない。

私は、一般に学校教育が不要だとは考えない。あるいは(この日記でみてきたような)学校外で子どもたちにさまざまな体験機会を用意する試みも必要だとは思う。だが、近藤さんのような個性をみてしまうと、今の「教育」では、やはり何か大切なことが忘れられているような気がしてならない。あるいは、何が過剰で何が足りないのか、・・・はっきり指摘はできないが、何かが明らかに違う、ということは間違いない。

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