月曜日, 9月 25, 2006

鈴虫

週末になって太郎と行動とする度に「トラブル」となってしまい、私のほうがかなりメゲています。・・・昨日は三鷹で国際交流フェスティバルという野外の催しがあって、太郎を誘って出かけようとしたのですが、太郎のほうは釣り堀に行きたいといいだし、道端に座って動きません。ではジャンケンで決めようと太郎が言い出したのですが、そのジャンケンで太郎がズルをして私が怒り、もうどちらも止めて家に戻りました。・・・もうほとんど子ども同士のケンカと変わりませんね! 太郎はママに「パパがいじめたー」と大泣きしてみせています。
【写真】鈴虫(2006.9.21)

太郎は母親を動かすコツを心得ていて、母親はこれに抵抗できません。一見、不思議に見えますが、その通りなのです。母親は時々、太郎を叱ったり、場合によっては感情を「爆発」させることもありますが、基本的に太郎に対決することができないために、叱ってもあまり「効果」がありません。したがって、今の太郎は、家の中では「小皇帝」状態で、人格として対立するのは私だけとなります。

ところで、今朝、子どもたちの登校の時、太郎も加わった言葉や態度でのいじめがありました。この間、いじめに遭っているのは決まった子で、太郎たちが道路に石墨のような石で「○○のバカアホ・・・」と書いたり、その子が文字を消そうとしている間に、いじめる側が「(○○を)置いていこう」と行ってしまったりしました。今朝は、気がついた母親たちが介入しましたが、状況は改善していません。私が知っている限りでは、昨年の後半から同じようなことが繰り返されてきたようです。

新しい首相となる安倍氏が教育改革を唱え、民主党や共産党もこれを巡って賛否の論を唱えていますが、結局のところ、政治家や官僚たちには教育の現場がどうなって、何が問題なのかということすらわかっていないように思われます。私たち、子をもつ親にとって、例えば「このようないじめを知った場合、具体的にどのように対処すべきか」といったことをしっかり周知して頂くことの方が、観念的な「教育改革」論議より百倍も大切に感じられます。

仮に3人の子がいじめに関係していれば、その3人の各学級担任、それぞれの両親、学童に行っていればその先生たちの全員が、いつ、誰が誰にどのようないじめをしたのかといったことを知っていなければなりません。そして、必要に応じて場を設け、子どもと大人たちが事実を確かめ、子どもたちの一人一人に「いじめをどう思うか」「なぜいじめがいけないか」「謝罪と反省の必要」といったことをわからせていくことが必要です。例えば、私の場合では、いじめを見聞きしても、具体的に(誰に何を知らせるなど)すべきなのか、何もルールを知らされていません。たぶん、そのようなルールなどないのでしょう。

このような中で、先頃もあったように、いじめられて自殺するような子が出た場合、それこそ学校の不作為による犠牲者だと思わざるを得ません。こうした事件が起きると、校長先生などが「いじめがあったとは知らなかった」などと述べるのがニュースに流れますが、知らないこと自体、本当に恥ずかしいことです。無責任だとも思います。もちろん親の責任も大きいと思いますが、今の日本では、学校と親が協力していじめに対応していこうとする場合、まず教師側がリーダーシップをとらないことには事態は変わらないでしょう。・・・しかし、私の周囲の状況、繰り返されるいじめや子どもの自殺のニュースをみる限り、残念ながら、悲しい気持ちで自ら命を絶つ子どもたちの列はまだまだ続きそうです。

0 件のコメント: