火曜日, 9月 19, 2006

チャドクガ

いや、大変な週末だった。鷲田清一先生のご本に、確か「言葉というものがなければ人が争うこともなかろうに」といった意味のことが紹介されていたが、太郎のあの一言がなければ、たろパパが怒って「家出」することもなかった、とは思う。でも、このことはもういい。太郎くん、きみのせいではないよ。パパはもう怒っていない。

【写真】ザリガニ釣り(2006.9.9)

でも、たろパパは「家出」をきっかけにいろいろなことを考えた。まるまる二日間、誰とも話さず、電話もとらず、街を歩き、椅子の上で寝た。ちょうど『マルテの手記』にあるように、21世紀はじめの東京もまた「死につつある街」にみえた。・・・家出を反対にすれば「出家」となる。今昔物語の仏教説話を読むと、釈迦が出家するまでのいきさつが事細かに描かれていて興味深い。また、釈迦が出家したあと、釈迦は高弟を実家に使いに出して母(妻)を説得し、自分の子(男子)を仏道に入れようとしたらしい。みんなには心配を掛けたが、たろパパには何か収穫があったと思われる「家出」だった。

話はいきなり変わってしまうが、9月の初め頃、2回にわたって玄関先の木にチャドクガの幼虫が発生したため、焼いて駆除した。あまりチャドクガの写真を載せたりしたくないのだが、確認のためにも小さいサイズで示しておく。

【写真】チャドクガの幼虫(2006.9.9)

この8月には東京の下町方面でも広い範囲でアメリカシロヒトリの食害が出たようだ。信州出身の方に聞くと、あちらでは毛虫が出れば、たとえその木が他家のものであれ何であれ、直ちに駆除してよい(駆除すべき)ものとなっているとか・・・。そう言えば、この夏には柳橋保育園でもチャドクガが発生して駆除したが、あれには困ると園長先生が言っておられた。家では一昨年、チャドクガが発生した時には強力な殺虫剤を使ったが、化学薬品の影響が心配になって今回は焼却にした。因果関係があるかどうか、たろパパにはわからないのだが、今年の春、先に強力殺虫剤を使った木の根に近い位置にぽんぽこ池を拡張したところ、この池に放したメダカなどはすべて数日で死んでしまった。

この件があったからということではないが、今、レイチェル・カーソンの『沈黙の春』を読んでいる。さすがに、DDTを頭からかける、みたいな荒っぽいことこそやらなくなったが、複合汚染の恐ろしさ、環境ホルモンの問題など、社会をあげて、注意深く、かつ真剣に取り組まなければならないという点はまったく変わらない。今、私たちの周りでは、社会が軋み、人の心が病んでいるだけではない。同時に私たちは、自然環境を汚染、破壊しつつあるのだ。そして、その「報い」は必ずやってくるに違いない。・・・世界はあらゆるところでつながっているのだから。

1 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

 Rパパです。
 家出とうかがったときは心配しましたが、得たものがあったとのことで、よかったですね。
 難しい背景事情はさておき、時々ふらりと行方不明になりたいという願望は、やはりありますね。何の前触れもなく、突然ひとりでどこか遠いところに行って。「命の洗濯」という前向きな表現は相応しくなく、何重もの鎧を脱ぎ捨てて、孤独感、不安感、劣等感のなかで人生と向き合う。密かに憧れますね。きっと、こういう感覚を理解してくれる女性は少ないのでしょう。小生も実現する勇気はなかなかありませんが(苦笑)。