月曜日, 9月 04, 2006

小学生の校内暴力

【写真】大バッタを狙うカマキリ。獲物が大きすぎ、手出しをあきらめた(2006.9.2)

9月1日の朝日新聞(第2東京)によると、昨年度の小学生の校内暴力が前年の1.7倍の60件に増加したとあります。
「オレばっかりじゃねー」。7月、多摩地区の小学校で2年生を担任する女性教諭が、おしゃべりしている男子の1人に注意すると、いきなり暴れ出した。抱いて落ち着かせようとしたが、腕をかまれ、歯形が残って内出血をした。「反抗というより、感情を爆発させるという感じ。幼さゆえだと思う」(記事より)
太郎も、家ではこんな感じでキレて私にぶつかってくることも少なくなく、状景が目に浮かびます。まったくのところ、この年齢の子どもたちを40人も相手にしている先生たちのご苦労は計り知れません。

記事は、教師が学力向上に駆り立てられて余裕をなくしていること、担任と子どもの関係がこじれることが「荒れる」きっかけになりやすいことなどを指摘しています。確かに、そうした面があるでしょう。しかしながら、この記事でひとつ抜けている視点は、教師と親の連携ではないかと思います。自分自身の反省をこめて書きますが、自分の子が通う学校の具体的な状況について、実際のところ、よくわかりません。太郎が1年生の時の公開授業を見に行きましたが、それだけで実状はわかりません。せいぜい学期ごと(?)の担任との面談の結果を妻から聞くだけになります。

親たちにしても、仕事や家事に忙しく、とくに問題でも生じなければ、学校のことは基本的に先生任せにしがちな方が多いのではないでしょうか。他方、先生たちの側でも、父母の力を借りたいと思う場面はあるにしろ、必ずしも親たちと緊密な連携をつくりたいと望んでいる訳ではないだろうと思います。小学校のクラスというのは、いわば「担任を権力者とする閉じられた系」で、学校と先生たちご自身が相当な意識改革に努めない限り、この小宇宙への父母側の「介入」を招きかねない緊密なコミュニケーションは避けたいというのが本音ではないか、と感じます。

例えば先日紹介した「五者面談」、あるいは教育方針、授業内容についての担任と父母の定期的話し合い、・・・教師と父母がいつも連携していて、その基本的な考え方や態度が一致していることを子どもたちが理解すれば、子どもたちの行動も大きく変わることは間違いありません。・・・でも、そうなるには、この日本では非常に長い年月が必要になるように思います。日本の先生たちの腰は石臼より重い、・・・これが私の誤解であればいいのですが。

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

NYパパです。検査お疲れ様でした。

さて家の子供の行っている小学校では学年の始めに保護者向けのオリエンテーションがあります。教職員の紹介と年間目標の説明があり、また学年ごとに分かれた説明会では、担任から学習内容の紹介が行われます。

その後2週間後に個別面談日があり、保護者から子供の得意な面や、強化が必要な部分などについて担任に対し話をする機会があります。

これ以外に2回の個別面談があります。
1学期の終わりに設けられている保護者面談日では、子供の学業の進歩状況などについて、担任と話し合います。子供も一部参加します。

2学期の終わりには子供主体の面談が行われます。この面談では、子供が自分の学習成果や進歩の状況を親に説明します。担任は座って観ているだけで特に口はだしません。

この面談は、「自ら責任を持つ学習者、生涯にわたる学習者」として、学習に対する評価を自主的に行う機会を子供に与えているとのことです。

因みに学校からは全て両親が参加することを求められています。会社を抜け出したり、半日休みをとったり大変です。こういったことで会社を抜け出すことは何かいけないことをしているという雰囲気があるのは問題だと思います。

これ以外にも様々なボランティア大歓迎というのが学校の方針で、遠足、社会科見学、花見、お月見、餅つき、音楽会、運動会...等保護者の参加が求められます。餅つきのボランティアに参加した時には『パパなにやってるの?』と私には言いながら友達には『あのお餅をついているの誰か知ってる?僕のパパだよ!』とニコニコしていたのを覚えています。また親だけの昼食会、宴会も盛んに行われます。先生も参加することもあります。親同士が知り合いで、また子供たちも大人を見ると『XX君のお父さん』という環境は大変気に入っています。

問題がない訳ではありませんが、まさにたろパパが言うとおり、先生、子供、親がきちんとコミュニケーションをとることがこれからの教育に重要なのではないでしょうか?

NYパパ

たろパパ さんのコメント...

NYパパ様

具体的なコメントを頂き、大変ありがたいです。・・・それにしても羨ましい限りです。これは学校がなりたっている背景、文化が根本から違うのですね。とくに日本の公立学校は、明治期以来、国家社会に役立つ国民を養成することが大目的で、現憲法、教育基本法にどのように表現されていようとも、親と教師が相談しながら学校をつくっていくといった方向は基本的に認められません。

まあ、大きな話は置いておくにしても、P・F・ドラッカー先生の文章の才を初めに見いだして伸ばす援助をしてくれたという小学校の女性教師たちのような方は、今の公立小学校にはいないのだろうか、とか思います。あるいは、僕らの小学校の時には、子どもたちは皆、先生を大好きで、休み時間にはアリンコのように先生の腰や背中にへばりついていたものですが・・・。今の子たちはどうなのでしょう。

私の姉も公立中学で管理職をしておりますし、妻の関係でも教職についている方が複数おられます。皆さん、偶にはこのブログを見て下さっているようですが、今までどなたも(匿名でも)コメントを下さいません。これは「悪意」ということではなくて、日本の学校文化には、「対等に言葉を交わしながら関係をつくり上げていく」という習慣がそもそもないのです。学校の先生が発する言葉に誤りがあってはならないし、何かを語ればそこには責任が伴う(だから何も言わないのがベスト)、みたいな変な世界です。

こういう日本の学校文化が根本から変わるのに、いったいどれくらいの歳月が必要なのか、正直に言って、私は悲観的です。