月曜日, 4月 10, 2006

暴力と人間の心・・・河合隼雄 『対話する人間』から

たおっちとりきやんがリビングの床で互いに相手を押さえ込もうともがきあい、りきやんの背中に、やはり床に転がった太郎が蹴りを入れている。それぞれ本気でケンカをしている訳でもなく、また、イジメということでもないにしろ、蹴られたり押さえつけられたりした方は結構痛そうなくらい・・・これは、昨日、たろパパの家での「一日保育園」の時のようすです。見ていたたろパパは、「おいおい、ちょっとやり過ぎだ!」と何度も止めに入りましたが、3人ともなかなかやめません。3人とも卒園以来1年が経っており、普段は一緒に遊ぶこともほとんどありませんが、この日、顔を合わせた途端、あたかも昨日まで保育園にいたかのように遊びだしたとのことです。

【写真】 桃の花でしょうか、ちょっとピンボケですが (2006.4.7 善福寺川で)

「暴力と人間の心」の章を読んで、その内容を子どもの成長という視点でまとめると、次のようになります。
1)近代社会では人間を心と身体に分けてきたが、それがあまりにも行き過ぎたため、人間そのものの理解が歪んでしまった。
2)暴力は否定されるべきものだが、同時に、人間存在の直接的な表現として人間を理解する大きな手がかりになるものでもある。
3)大人の考える「よい子」の枠に閉じこめられることによって問題を抱えた子どもに遊戯療法を行うと、いきなり治療者に激しい「暴力」を振るい出すことがしばしばある。
4)子どもたちの存在の深層から吹き出してくる暴力=力の放出が建設的なものになるためには、誰かがこれを全力で受けとめる、立ち向かうことが必要。

さて、数日前の朝日新聞に、3月のはじめに世田谷で起きた中学生による放火事件の分析記事(深津慶造記者)が載っていました。この記事によれば、中学生が「父親が自分を信頼していない」と感じたことが、放火の直接のきっかけになったとのことです。しかし、同時に「父親は、少年の生活を改善させようと懸命だった」らしい。・・・難しいものです。背景には両親の離婚があり、不登校と家庭内暴力の後に、少年は母親のもとへは戻らず、自ら父親と暮らすことを望んだという経緯がありました。父親の努力と少年の気持ちがすれ違ってしまったということでしょうか。ここで父親の努力が空回りしていたとして、どこをどのように変えるべきだったかと問われても、私には見当がつきません。

爆発する思春期の子どものパワーを建設的な方向に転位・発展させるほどの「壁」になること、・・・河合先生の言われることは理解できるのですが、実践においては、なかなか一筋縄ではいかない難しさがあるように思います。

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