火曜日, 8月 08, 2006

もう一度、子どもたちのコミュニティについて

8月1日に「子供たちのコミュニティー」を書きましたが、それからずっと、このことが気になり続けています。このこととは「今の日本の子どもたちは子どもの社会をつくらない」、あるいは「今の子どもたちに自由がないこと」といえるでしょうか。乳幼児期を過ぎてことばを使うようになるや否や、子どもたちは「関係」を意識し始めます。太郎たちの年齢(6、7歳)になれば、ほっておいても友だちの輪が広がっていき、そこに親たちが介入することを嫌うようになります。

今の日本の子どもたちが不幸だとすれば、それは物質的な不足ではなく、この子どもたちのコミュニティについて、親たちがあまりにも強く干渉し過ぎること、少子化や安全な環境が保証されないこと、あるいは塾通いなどで、子どもたちが自由に自分たちの「社会」をつくりあげる時間的地域的環境がないことがもっとも大きいような気がします。

【写真】関前公園の人工滝(2006.8.6 武蔵野市)

本来育つはずの子どもたちの社会では、親たちがそれぞれどのような人たちであれ、子どもたちは親は親、子どもは子どもと区別して捉えます。それぞれに親との関係に悩む子たちが相談しあったり支えあったりするものなのではないでしょうか。もちろん、争いもあり、協力があり、リーダーもいます。仲間を守ったり助けたりする者が慕われ、自分だけかわいがる者は嫌われます。子どもたちはここで、いずれ生きていくべき本当の社会の練習をするのだということもできます。・・・このような「子どもの社会」をつくる環境を、今の大人たちは用意しません。それが問題ではないでしょうか。

7月30日の朝日新聞朝刊に、作家の野田知佑さんが校長を務める徳島県の「川の学校」のようすが紹介されています。「この学校では、君たちは『自由』なんだよ」と語りかける野田さんのことばが印象的です。子どもたちが自分たちで社会をつくっていくのは大人の指示によるものではありません。本当の自由がなければ、子どもたちの奥底で眠っている意欲も目覚めません。大人にできることは、子どもたちが自分たちの目標を決めて行動していくことができる環境を整えること、放っているようでいて、どこかでじっと見守っていることくらいではないでしょうか。

※写真の「滝」は山奥ではなく、武蔵野市の住宅地の真ん中にあります。関前公園には、この滝と20メートルほどのせせらぎ、ジャブジャブ池、トンボ池などがあります。確かに都会のオアシスではありますが、莫大な予算を投じて建設、維持しているこの公園も、本当の自然には到底かないません。

1 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

NYパパです。
たろパパお出かけ中ですが、昨日出張から帰ってきたので一言。

今住んでいるアパートでは同じくらいの年齢の子供のいる家族がよく集まります。昨日は皆で花火をしました。毎回ご近所の新しいメンバーが増えるのですが、昨日は初めて参加した家族が皆にスイカを振舞ってくれました。

なんとなく花火が始まり、次第に親は親、子供は子供の輪ができ、小さなコミュニティーがそれぞれ出来上がります。親達はどこのスーパーが安いとか、ガソリンスタンドはどこが良いとか他愛のない会話を楽しんでいます。子供は子供で明日はたろう君の家で『レゴ』をして遊ぼうとか相談しています。

こういったことを自然に行っている間は良いのでしょう。だんだんと輪が広がり、大きなイベントになるのは素晴らしいことと思いつつ、親としてはきっと面倒になり、長続きしない関係になってしまうような気がします。

何となく今のご近所との繋がりがずーと続くといいなあと思った一日でした。