火曜日, 3月 14, 2006

トリン・フォー・トリン

昨日、またクルクル社の優秀なエンジニヤの皆さんとお話しする機会があって、盛りあがったついでに「ブログ始めたらいかが」と勧めたら誰も乗ってきませんでした。うーん、だいたいこういう理系の方たちは人付き合いもあまり上手とは言えず、コミュニケーション能力の不足を問題とも思っていないようです。というより、自分の意見を人に伝える訓練の機会がなかったのかな、って思いました。その意味で・・・

【写真】 昨秋、柳橋保育園ではビオトープ「どんどこ池」ができてから半年間の子どもたちと自然の係わりを「どんどこ池の四季 2005 春・夏」というハガキセットにまとめました。これはそのうちの1枚「卯月」。(2005年9月 至誠学舎東京 柳橋保育園 制作)

先に幼児教育のトリン・フォー・トリンに触れましたが、デンマークでのそのようすを、改めて村上龍さんのJMMメルマガに高田ケラー有子さんが書いた文章から(少々長くなりますが)引用してみます。

ゼロ年生の時間割はごく単純なものですが、その中で特徴的なのは、"Trin for Trin ( =Step by Step)"と呼ばれる時間があることだと思います。ゼロ年生は基本的に勉強を始めるための準備期間としてあるわけですが、この "Trin for Trin"の時間は、ある1枚の写真を見ながら、そこにいる人の気持ちや感情などを推察したりすることから、相手を思いやる気持ちや、人と人は違うのだということを学んでいきます。そこには「何が正しい」という前提が存在せず、子供たちにさまざまな意見を出させることと、「考えてみること」に重きが置かれています。これは机の前で椅子に座って先生の話を聞くのではなく、教室の空いているスペースに椅子を並べてサークルを作って、先生が見せる写真を見ながら話が進められます。

私たちが参加した月曜日の授業にもこの "Trin for Trin"がありました。この日の写真には二人の女の子が写っており、一人はパズルゲームをしたがっているのですが、もう一人はしたくない様子です。その様子を見ながら、先生からさまざまな質問がなされていきます。「この子は遊びたくないの?」「この子はこの子が嫌いなの?」「じゃあなぜ遊ばないの?」と言った具合です。そうしていくなかで、人には同じ事でもしたい時としたくない時がある事。それをわかってあげることも大切である事。もし、自分がしたくなくても断り方にもいろいろあること、などなど、一緒に考えていきます。日常的な例もあげながら、子供たちが自分で考える時間を与えます。

この "Trin for Trin"は、比較的新しい教材でオリジナルはアメリカのものだそうですが、それがノルウェーに渡り、そこでスカンジナビアの人々にフィットする翻訳がなされ、北欧諸国の初等教育機関で使われている、ということのようです。この日の"Trin for Trin" では、人には選択する自由がある、ということもその写真から学んでいくのですが、最後に「選択の自由」を試す遊びもあり、子供たちが楽しく学べる工夫がなされていました。(ここまで引用、JMM [Japan Mail Media] No.297 2004年11月18日発行『平らな国デンマーク/子育ての現場から』(第19回)「ゼロ年生の学校生活」より、高田ケラー有子さんは造形作家でデンマーク北シェーランド在住)

こういう幼児教育の方法の話をすると「日本では無理だよね」というのが大方の日本人の反応で、私もそれは無理もないと思います。日本の学校というのはとにかく「教える、覚える」ことが中心で、考えさせることや生徒の興味を育てることを軽視しがちです。私の親族にも学校で教えている方は少なくありませんが、先生たち自身が「たくさんの知識を身につけることが優秀」という原理で選抜されてきていますので、この社会のほとんどの問題について回答がみつかっていないこと、回答はひとつではないこと、知識自体より解を求める行動、そしてそれを支える興味関心つまりモチベーションの方が何倍も大切であること、人は他人とのコミュニケーションを通じて解に近づいていくこと、総じて答えそのものより答えを求めようとする意思の方が大切なこと、等々について、建前はともかく実際にはほとんどわかっていません。そして、こういう先生たちに教えられた生徒たちが就職しても、実務にはほとんど役に立たないということになります。

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