木曜日, 3月 02, 2006

よい議論の習慣をつくり出すために

日本人は頭もよいし、優れた芸術的感性に溢れる文化を創りだしてきたけれども、それとあまりに対照的なのは、よい議論をしながら、あるいは議論を楽しみながら社会を形成する習慣が絶望的なほど欠落しているという点です。もっとも、僕はこれを日本文化の特質だということはできると思いますが、けっして日本人の素質に由来するものだとは思いません。NHK教育TVに「しゃべり場」という、若い皆さんが熱く議論する番組があります。ここでの「議論」もあまり生産的ではない、それぞれ言いたいことだけ言って咬み合わないという感じ受けることがしばしばあります。1年ほど前、内閣府のある研究機関が開いたフォーラムで評論家の小倉千加子さんが「何が"しゃべり場"だ!」と語気鋭く叱っておられましたが、日本人の議論はやたら熱くなるだけで、そこには人の言葉にジッと耳を傾け、自分と人との意見との違いを見極め、そこからつぎの発見に至っていくという過程、ドラマがありません。これは日本人の大人同士の議論でもほとんど一緒です。

例えば、湯沢雍彦さんという方がまとめた『少子化をのりこえたデンマーク』という本にはつぎのような観察が記されています。それには「ギムナジウム(普通高校)3年生7名に集まってもらい、勉強や人生設計について質問した。話をじっと聞き、落ち着いてはっきり答える態度は『大人』を感じさせる」とあります。あるいは、先の私の投稿で紹介した高田ケラー有子さんによると、このデンマークの子どもたちには小学校の就学準備学年で "Trin for Trin" という時間があり、先生と子どもたちが互いに議論しながら、自分がありのままの自分であることの大切さを理解させることから「教育」が始まる、とのことです。これなどもよいお手本になるのではないでしょうか。こうしたことを考えると、僕らはもっと子どもの頃から自分の考えをまとめて人が納得できるような言葉で表現する訓練をたくさんすべきだし、そのような機会をつくるべきだと思います。

ネットの世界ではこうした傾向がさらにはっきりしています。昨日、たまたま「はてな」を覗いたら「議論のしかた」というのがテーマになっていました。それによるとかなりの掲示板では「議論は禁止」なのだそうです。一方でいったん議論が起こるといきなり罵声が飛び交う「2チャンネル化」「ブログ炎上」といったこともあちこちであるようです。このたろパパ日記についても「炎上」はご勘弁願いたいところですが、そうではなくユーモア溢れるツッコミや異論は大歓迎です。そういう楽しく緊張感のある議論をすることが、このブログをつくった一番大きな目的ということです。どうぞ、ある意味で周りをあまり気にせず、たろパパを「叩き」に来て下さい。それで、もし僕が切り返せないほどのご意見を頂いてもまったく構いません。イッツノープロブレム!です。イザとなればあっさり「投稿管理」を発動しますから♪ (投稿管理をすると、僕は独裁者のごとく自分に都合のよい意見だけをコメントに受け入れることができます。さすがグーグルというべきでしょうか)

【写真】羽化したナミアゲハ 左下に別のサナギもみえる(2005.7.6)

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