金曜日, 3月 10, 2006

朝日新聞のジャーナリスト宣言について

昨日の「人の世に言葉なかりせば」に、とむさんからコメントを頂きました。そのお返事にも簡単に紹介しましたが、この「宣言」キャンペーンについては、あちこちのブログでさまざまに議論されているようです。氷山の一角を掘った程度かもしれませんが、以下、簡単に整理しておきます。
「ジャーナリスト宣言」の内容と経緯
「言葉は感情的で、残酷で、ときに無力だ。それでも私たちは信じている、言葉のチカラを。ジャーナリスト宣言。朝日新聞」
朝日新聞社によれば、この創刊127周年記念日から展開されているキャンペーンは、「NHK番組改編」報道問題や虚偽メモ問題で傷ついた同社への信頼を回復するために行っているものとのことです。私は、通勤途上の総武線のある駅でポスターに大書されているコピーをみかけ「なんか恥ずかしいなあ」と感じたのが最初でしたが、あちこちのブログを覗いているうちに「千里山一里」さんのところで、思わずコメントをつけてしまいました。
【写真】中央線荻窪駅北口の風景 ビッグイッシューを売るおじさんがいた(2006.3.8)

千里山一里
千里山一里さんは、広告研究がご専門のようですが、映像や写真と言葉のインパクトの違いとコピー内容の食い違いを指摘しながらも、「適切で良い広告である、と思う」とされています。ここから議論が始まり、千里山一里さんの丁寧な「受け」を交えて言葉が交わされていきます。私自身は、少々大げさかもしれませんが、朝日新聞社はこの宣言を撤回すべきと書きました。それはともかく、このサイトでの議論の流れからみると、この「宣言」が広告としてどうかという範囲を超えて、社会の公器としての新聞社の姿勢を問う意見が強くなってきたと、私はみます。

経営の視点からみると、恐らくこれだけ反発や批判を受けるであろうコピーを採用するかどうか、当然、朝日社内での議論はあったのだろうと思いますが、問題はこの社内での議論がどこまで広くかつどれだけ真剣に交わされたのかという点にあります。朝日新聞は虚偽メモ問題で「解体的出直し」を決意しているということですが、新聞社としての基本姿勢に関わるキャンペーンをめぐる社内の議論ですから、仮に「言葉のチカラを信じる」派と「そんなの恥ずかしいからやめろ」派が激突して社が分裂するくらいまでやってもいいと、私は思います。しかしながら、そこまでの議論があったという話はあまり聞こえてきません。こういう組織はダメです。

小田嶋隆さん『偉愚庵亭憮録
小田嶋さんは「あれのCMをテレビで見ると、微妙にはずかしい気持ちになる。なぜなんだろう? おそらく、朝日新聞社自身が、自分たちの『言葉のチカラ』を信じていないように見えるところがイタイのだと思う」と鋭く指摘しています。そして、この小田嶋さんのページにつけられたコメントは、いやもう皆さん、ボロクソにこのキャンペーンを酷評しています。まあこのようにスグ盛り上がりやすいのが「ブログのチカラ」ではありますが、「一体、ここまで書かれても朝日側には公式のリアクションはないのか?」という気にもなってきます。
【写真】中央線荻窪駅北口の風景 昔の荻窪しか知らない方は驚くかもしれませんね(2006.3.8)


内田樹の研究室
内田先生は「朝日は自覚していないだろうが、これは言語についてのひとつの党派的イデオロギーの宣言である」と、もうそれこそ言語論をベースに本格的に批判を展開されています。とりわけつぎのフレーズに私は得心がいく思いでした。因みに私は不勉強でラカンもその後に触れられるウィトゲンシュタインも読んではおりません。
しかし、ラカンが書いていることはすこしでも集中的に言葉を書き連ねた経験のあるものなら直感的に知っていてよいことである。
「私は私が書いている言葉の主人ではない。むしろ言葉が私の主人なのだ。」
「言葉の力」とはそれを思い知る経験のことである
今、新聞社はインターネット時代の大きな地殻変動にさらされています。恐らくこれから数年の間に大半の地方新聞は経営危機に見舞われるであろうし、朝日、読売といった大新聞も倒産の危機に陥ることはないとは言い切れないでしょう。NYタイムズもワシントンポストも、ウェブ時代に生き残るために必死のトライを続けています。こうした中で出された「ジャーナリスト宣言」が朝日新聞社崩壊への記念碑とならないよう心から祈っています。これはけっして皮肉などではありません。先の千里山一里さんのブログにつけたコメントで書いたとおり、私は小学生の頃からほぼ40年間も同紙を読み続けてきた「忠実な朝日読者」ですから。

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

やはりそうでしたか。あのキャンペーンは実に様々な立場の方の琴線に触れるような一句でありましたか。

たとえ解体的出直しのキャンペーンの一環にせよ発信する立場の朝日新聞は自らマスメディアとしての地位影響力の範囲を考慮し、更なる自覚をもって企業活動を展開する必要がある。その一方で厳しく、または建設的な批判な加えた読者層が確認されたということは健全な言論が存在しているという日本の現状に他ならない。(←”ちくし”世代の代弁みたいですね)

先に議論した在日外国人についてはBlogのリンクを紹介しておきますね。ただ一般的に外人がこれらの投稿を読み、背景まで含めた内容を消化できるまでの言語能力ってなかなかつかないんだよなー。

ならばメンドクサガリ屋の私としては、「かつて朝日・巨人軍・自民党が主勢の時代が日本にあったんだよ」などと適度にクールに切返してお茶を濁そうかとも思います。

とむ

たろパパ さんのコメント...

僕がこの問題にこだわるのは、朝日を叩きたいからでも逆に守りたいからでもありません。千里山一里さんのブログにもコメントしたとおり、新聞社というのは人々の間の、国家の間の、民族の間の対立を煽ることも和解を促すこともできるほどの力をもっているからです。人間の世界のもっとも重要なインフラのひとつと考えています。だから、ああいう了解不能なコピーを社の方向として掲げているのはおかしいと注文をつけているわけです。まあ、これで朝日が実際に潰れてしまえばそれはそれで問題解決かもしれません。いいところが非常にたくさんある新聞ですので、残念だということです。