このお二人の対談集、まだ、全編の3分の2くらいしか眼を通していないのですが、大事だと思われるポイントをいくつか抜き書きしておきたいと思います。
河合さんと差し向かいで話をしていて僕がいつも感心するのは、彼が決して自分の考えで相手を動かそうとしないところである。相手の思考の自発的な動きを邪魔するまいと、細心の注意を払う。むしろ相手の動きに合わせて、自分の位置をすこしずつシフトさせていく。(村上)
結局、それまで日本の小説の使っている日本語には、ぼくはほんと、我慢ができなかったのです。我(エゴ)というものが相対化されないままに、ベタッと迫ってくる部分があって、とくにいわゆる純文学・私小説の世界というのは、ほんとうにまとわりついてくるような感じだった。(中略)でも、最近になってやっと日本の文学自体の中で、言語的な流れが少し変わってきた気がする。(村上)
でも僕はもう以前ほど反抗的ではないです。というのは、(中略)反抗しようにも反抗すべきものがもうそこにほとんど残っていないからだと思います。僕が作家になったころから比べたら、日本の文壇の空気もずいぶん変わった。「こうあるべし」という無意味な業界的掟がどんどん消えていって、システムとしての風通しが前よりはよくなってきた。(村上)
おたずねしてみたかったんですけれど、夫婦というのは一種の相互治療的な意味はあるのですか。(村上)
ものすごくあると思います。だから、苦しみも大変深いんじゃないでしょうか。夫婦が相手を理解しようと思ったら、理性だけで話し合うのではなくて、「井戸」を掘らないとだめなのです。(河合)
芸術家、クリエートする人間というのも、人はだれでも病んでいるという意味においては、病んでいるということは言えますか?(村上)
もちろんそうです。(河合)
それにプラスして、健常でなくてはならないのですね。(村上)
それは表現という形にする力を持っていないとだめだ、ということになるでしょうね。それと、芸術家の人は、時代の病とか文化の病を引き受ける力を持っているということでしょう。(河合)
以上、私(たろパパ)の関心に合わせてメモしました。この対談集を読み終えたら、次は『ねじまき鳥クロニクル』に進みたいと思います。
【写真】海水槽は幅約60センチ。昨日バカ貝の大きいほうが死んだが、その身は、たちまち魚やエビたちに食べられてしまったらしく、ポッカリと開いた貝殻しか残っていなかった(写真は2006.6.3)
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