うーん、どうなんでしょうか。明石さんは、担任や生徒指導主事が定期的に家庭を訪問して子どもに反省を促し、読書などの課題を与えて学習をサポートさせる、あるいは、児童相談所や保護司と連携して地域での体験を通じて立ち直らせると書いていますが、本当にそんなことが可能なのでしょうか。担任の先生たちは無茶苦茶忙しそうだし、児童相談所は虐待問題にさえ対応できない現状です。保護司自体のなり手が不足している時に、問題を起こして出席停止になった生徒まで目が届くとは思えません。何よりも学校は、出席停止にした生徒たちの訪問指導をやろうとすれば、現状の運営体制を根本から見直さなければなりません。そうした改革に触れずにこのように論じるというのは、楽観が過ぎるように思われます。
加藤十八さんは、「日本は米国の成功に学べ」として、ゼロトレランス方式によるアメリカ国内の教育の再生のようすを描き、日本もこれに続くべきだと主張されています。しかしながら、私は、アメリカ人的なエゴ(我)を排除することで成りたってきた日本社会、とりわけ日本の学校という極端な保守的文化をもつ場で同様の成功が得られるとはとても思えません。加藤さんがお書きのとおり、ゼロトレランスは日本発の工場における品質管理手法で、日本人は工業製品をつくること、あるいは作物を育てることなどには非常に特異な才能を発揮しますが、人を育てる技術、あるいはよく考え抜かれたコミュニケーションを通じて自由な社会を形成していく技術を持ち合わせません。こうした日本社会の特性を踏まえた主張であるのかどうか、疑問をもった次第です。
【写真】第二次大戦下、北海でのイギリス戦艦とドイツUボートの攻防さながら、7匹まで(食べられて)減ってしまったサッパくんたちと大物ハゼ(左下)の睨み合いが続く(2006.6.17)
義家弘介さんは、「権威ではなく、情熱と愛情を持った教師集団の力で導くのが教育なのに、こうした教師集団を作らないままルールだけを厳格にしようとしている」と、ゼロトレランス導入を批判しています。私は義家さんのこれまでの実践とこの論稿を評価したいと思いますが、同時に、無数の不登校者を出し、引きこもり、あるいは家庭内暴力といった問題が蔓延する日本社会のあり方について、さらに原理的なアプローチを深めていってほしいと心からお願いするものです。みんなが苦しみ、みんなが解決を求めているのに、誰も本気になって解決しようとしていない、・・・あるいは解決できると信じていないのかもしれませんが、義家さんのような深い情熱をもった方こそ社会全体に影響を与える理論的な追求をしてほしいと感じました。
2 件のコメント:
たろパパさん、こんにちは。Rパパです。
ゼロトレランスは、本質的に、現場の裁量を極小化するものであり、実態に即した対応を困難にするものです。ゼロトレランスの導入は、率直に言って、保守主義者の現場に対する不信の表明にほかなりません。ゼロトレランスの教育のもとでは、例えばADHDなど発達障害児に対するきめ細やかな対応は期待できないでしょう。
明石氏のような対応ができれば、実質的には問題ないかもしれません。しかし、現在の態勢ではほとんど夢物語だと思います。そもそも、同氏のいうきめ細かな対応が出来ているのであれば、ゼロトレランスの導入を検討する必要すらないからです。
話は変わりますが、本日の朝刊で、埼玉県戸田市の教育長が、卒業式等で国歌斉唱時に起立しなかった来賓について、「はらわたが煮えくりかえる」という表現で非難し、調査する旨を宣言しました。今、話題になっている愛国心教育の行き着く先が見えるようで、空恐ろしい感じがします。
Rパパ様
返信が遅くなり、すみません。
肝臓のせいばかりでもなく、少しウツ傾向が出て、気分が落ち着きません。
ゼロトレランスについて、いろいろ教えていただき感謝です。
戸田市の教育長の件、公職にある方の発言や行動はもっともっと慎重にあるべきだと思います。
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