warp-speed, ultraconnected culture at work今のアメリカの学生さんたちの文化を一言で表すとこうなるんだそうです。まあ、確かにこのような文化を可能にする環境はこの3年ほどで大きくできあがってきたということだとは思います。でも、いやはや、驚きではあります。論理的な可能性がみえれば本気で突っ走るアメリカ人のパワーがみえますね。
「とにかく若者のほとんどが厖大なネットワークを持った状態でキャリア構築を行う時代だということである。これは明らかに、我々の時代と全く違う。そして皆、プライベートな情報の開示も含めて、旧世代には理解できないほどものすごくオープン。そして、おそろしいスピードで厖大な量の情報を皆がシェアする文化」
「そしてチーム、プロジェクト、協力という感覚を皆が共有していて、たとえば何か技術的な問題に直面すればギークの友人にIMで尋ね、問題を解決する。会社の境界など考えずに、外部の人間の知恵を求める」
【写真】1.5センチほどに育ったカマキリ(2006.5.21)
日本でもミクシィの会員が300万人と騒がれたり、確かに一部の優秀な学生たちはネットを上手に活用しているとは思うのですが、どうも見劣りするようです。日本の教育は、小学校あたりで、さもないことに子どもたちを追い回して疲れさせ(うざい、かったるい)、大学生になるころには人間や世界に対する興味を喪失した消極人間をつくることが大変上手だということではないでしょうか。
・・・小さな子をもつ者としては、こんな他人事みたいな表現はしたくないのですけれども。小学生くらいの子たちには、自分の意見をはっきりもつことが一番大切であること、人は自分と違うということ、人の気持ちを思いやる想像力が大切なこと、・・・あの trin for trin どおりですが、こうしたコミュニケーションの基本をしっかりと身につけさせることができればよいのだろうと思います。それができれば、あとは自由にいろんなことを体験させて自分から考え、周りと議論しながら学んでいく習慣をつければいいのだと思います。
総表現社会と村上春樹の言葉このところ、新聞紙上やネット上で村上春樹の名前を多く目にするようになりました。海外での高い評価が国内での評価に環流する形のようです。ところで、理由は自分でも定かではありませんが、私は彼の小説をほとんど読んだことがありませんので、今ちょうど『ノルウェイの森』を読み始めたところです。
それはともかく、この投稿によると、村上春樹という人は、プロの批評家の自作への評論を読まないらしい。このことを巡る柴田元幸さんと村上さんのやりとりが紹介されています。柴田さんが、では「読者の声は聞かれますか?」という問いに、村上さんが(概略)つぎのように答えています。
「インターネットでウェブサイトをやっていたときは全部読みました。僕がそのとき思ったのは、一つひとつの意見は、あるいはまちがっているかもしれないし、偏見に満ちているかもしれないけど、全部まとまると正しいんだなと。・・・(中略)・・・僕は正しい理解というのは誤解の総体だと思っています。誤解がたくさん集まれば、本当に正しい理解がそこに立ち上がるんですよ。だから、正しい理解ばっかりだったとしたら、本当に正しい理解って立ち上がらない。誤解によって立ち上がるんだと、僕は思う」
うん、まあ、そうですね。このブログページでは、この村上さんの言い方自体を巡って、またさらに延々と多くの皆さんが入り乱れて賛否のコメントを寄せている訳ですが、この認識の形成のされ方の構造はあたっているだろうと思います。一般に、認識の深化は、誤った理解が現実や他の異なる認識との対比で訂正される過程を必ず経過しますし、そのために、対立的な議論を続けていると、論者Aの論旨がいつの間にか論者Bの論旨になっていたりということが起こることになります。多数の人が関わるネット上で、次第に「正しい理解」が形成される動的な構造を指摘している村上さんの言い方は適切と思われます。
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